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2014. 04. 30  
実に14年ぶりの主人と2人での旅行(イタリア紀行については別途アップします)〜Somatic Experiencing®のトレーニングを終えて、昨晩遅くやっと帰って来ました。家をあけた10日間が1光年のように思える非日常の連続でした。折しも今日は新月。セッションが終わってから買い物にでかけ、部屋を掃除して、いつものお祈りを済ませたらすでに真夜中まわってる・・

非日常から日常への切り替え。

今年に入ってから強く感じるのが、もう私には必要なことしか起こらないし、必要な人としか会わないんじゃないか、と思えるような実感です。突拍子もない感覚なのですが、そうだとしか思えないほど、奇妙な符号が連続して起こる。「たまたま」「ふと」連絡をくださるかたがまるで欠けたピースを埋めるような方だったり、このスイッチがなければ始まらない、というコースのキーパーソンが、ぎょっとするタイミングで現れる。それもだいたい普通なら絶対見逃すルートで。目の前で次々に繰り広げられる出来事が、まるで映画のスクリーンを見ているような非日常の連続。何か大きな存在の手によってこの世は動かされているんじゃないか、と思わずにいられない・・。

ところで、このブログの連絡フォームがうまく作動しなかったり、メールが届かなかったりすることが多発しているそうなのです。複数の方からご指摘いただいて知りました。あと、よく迷惑メールに振り分けられてしまっていて、それが届くのが1ヶ月後だったりして見落としたりしてしまうこともあるのです。私は頂いたメールにはどんなに忙しくても遅くとも必ず数日中には返信していて、込み入った案件でも必ず時間をとってお返事しています。だからどなたに対しても無視は絶対しません。これは私がされるともっとも傷つくことだから。(愛の反対は憎しみではなく無関心、というマザーテレサの言葉に、人生かけて同意します。)もし私に今までご連絡をくださった方で私からの返信がない経験をされた方がいらっしゃいましたら、知らなかったとはいえ大変申し訳ありませんでした。rolfertakamiアットgmail.comに別のアカウントから再びご連絡頂けると嬉しいです。メカ音痴ゆえ、対処方法がわかりません。すみません・・・・

今年に入ってすぐ、船井幸雄氏を失いました。今月の満月にエミリーコンラッドを失いました。この二人が亡くなる直前、私は虫の知らせを受け取っていて、その正確さに後で信じられない思いをしました。・・動かされてる。

ふとした思いが瞬く間に現実として目の前に現れてしまうので、最近、これからは今までとは違う、気をつけないといけない、とかなり自覚するようになりました。なあ〜んちゃって、みたいなことを軽々しく口に出すと、念になって実現してしまう。これはまずい、自分の言動には責任持たないといけない。

話が逸れました.

アッシジでの非日常体験からまだ覚めないまま、今回は何の準備もできないまま、とにかく荷物だけまとめて向かったのが今回のSEトレーニングでした。前回と大きく違ったのは、私は他の参加者と違って一人だけ言語の壁があるし、一人だけ東洋人だけど、施術者としては他の人に劣っていない、といううっすらとした自信でした。こういうことを臆面もなく言ってしまえるようになったのも、SE効果のひとつかも。(そして日本に帰れない理由のひとつかも。)

I'm proud of myself.

これって日本語にはないよなあ〜、とつくづく思うのです。この感覚がないから、もちろん表現もない。愚妻、稚書、弊社・・数え上げたらきりがないほど、自分のことを貶めるのが日本人。謙遜といえば聞こえはいいけれど、字面だけ見ると自虐です。この感覚はアメリカ人にはどう説明してもとうてい理解出来ない。

イギリス人と話してて解ったのですが、これはイギリス英語にもない(!)そうなのです。陶酔しながらI'm proud of myselfといえるのは、CVをきらびやかに装飾し、読んだ方まで赤面しそうな自己推薦文を書けるよう練習を積んで来たアメリカ人だけだったのか・・。今は時代は変わったけれど、yes sir, yes my load, majestyなどといちいち口にしてきたイギリス人も、humbleという感覚を文字通り身体に叩き込まれているので、とてもこんなこと自然には口には出せないのかもしれない。

その彼らからさえ、Don't underestimate yourselfと言われた。いろんな人から。でもずっと信じられなかった。だって頭を使わない会話ならいいけど、議論になると早口の彼らのテンポにはどうしても追いつかないし、言語脳の調子のいい日と悪い日の波があって、ダメな日はもう舌がもつれてまるきり言葉が出て来ない。脳が働く日でもあまりに身体中の全神経を吸収に集中させているので、ある一定時間を超えるとショートを起こして皮膚の内側で密かに失神を起こしてしまう。(いや密かだと思ってたのは私だけで、ペドロを目の前に堂々の居眠りをしていたのは誰の目にも明らかだったようで・・。)

言霊というのは、あります。だから新月の今日はとくに、肯定文だけを意識して使う。これはいいトレーニングだと思っています。日本人はちょっと大げさに自分をほめてやっとバランスとれるかもしれない。here and nowという感覚を、大言壮語でも自虐でもなく、ただありのままに言葉にする練習。

結局トレーニングの内容から逸れっぱなしでした。本題は続きに・・

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2014. 04. 13  
ブループリント(青写真)というのは、建築で使う設計図のことです。建築家は設計図に従って家を立てる。人間も同じで、生まれる前に作った魂の設計図に従って人生を生きている。彫刻家が石の塊から何が現れることになっているかをあらかじめ知っているように、創造のキーは、ブループリントが握っている。創造は、ただやみくもに行き当たりばったりで行われるんじゃない。

ロルフィングではあまり前面に押し出しませんが、クラニオセイクラルやフェルデンクライスでは主要な位置を占める胎生学。私たちの身体がどういう方向に成長するかの設計図に立ち戻ると、こんがらがったものがほどけて、いまの困難のブレイクスルーにつながることが多い。

ロルフィングでも、ないがしろにしてる訳じゃないのです。私の解剖学の先生コニーは胎生学の専門家だし、私もホメオパシーやクラニオセイクラルでずっとやってきたから重要性はよく知っています。そもそも、ソースポイントセラピーはずばりこれを前面に押し出したエネルギーワークです。

どう生きていいか、どこに行ったらいいか、わからない。そう途方に暮れるときには、自分の決めた魂のブループリントに立ち返ればいい。私たちがもれなく祖先から受け継いだDNAは、その情報を持っている。ただ眠らせているだけなのです。

大けがから一転、執刀にあたったドクターやリハビリ関係者から奇跡だ、宇宙人だ、と驚かれながら驚異的な早さで回復を遂げているトップダンサーとワークさせていただきながら、このブループリントの重要性を強く感じたので書いておきます。

私たちは設計図に従って生きている。

というと、じゃあ設計図にないことはできないんだ、無限の可能性があるんじゃなかったのか、とがっかりするかもしれない。でも私たちはDNAの二重構造に現れるようにもともとハイブリッドな存在です。本来だったら開花させられたかもしれない別の道がある。あるいは、同時に2つ3つの開花、これもありです。私たちは祖先から受け継いだ情報のほとんどを眠らせたままでいます。だいたい、設計図にない=全然向かないから好きでもない=こと、やりたいですか?

私のブループリントは、クラニオセイクラルのアプレジャーがいう「もう一人の私」が握っています。あなたの内にいる治療者、という言い方もする。ソースポイントではソース(源)と言い、あるいは単純に神、といえばわかりやすいかもしれない。

白いキャンバスでも言いましたが、人生が、本来の設計図を開花させていくことじゃなくて、他者が作りあげた「私」に私を矯正させていくこと、にすり替えられてしまっている人がいる、ということが本当に残念で残念でしかたがないのです。本当は誰に聞かなくたって、私には本来自分のきめたブループリントがある。そこに立ち返れば、眠っていたDNAは目覚めるし、他の人には信じられない奇跡を起こすことができる。なにも特別な人だけに与えられている、特別な能力じゃない。万人がそれぞれ持っている可能性。ただそれを使うか使わないかだけの違い。意識して開花させれば、奇跡は起こる。

「私」に色を付けて行く人たち、私を教育し、影響を与えて行く人たち。彼らの教え、彼らが描いた「私」は、彼らにとっては真実です。「私」に大きな影響を与えてくれる人は、間違いなく「私」に必要な教師です。でもそのときに是非感じてもらいたいのです。彼らの教えに導かれているときの私の身体を。そこに魂のふるえはあるか、細胞が目覚めて行く感覚はあるか。それは、自分の可能性を自ら閉じて、矯正する方向に向かっていないか。

矯正の先に続くのは迷子です。私は迷子を長くやったから、よくわかる。誰もができるなどとは思わないこと、絶対無理だと思うことを、自分の設計図に沿っているという感覚を持ち続けている限りは、やることができる。彼らの創り上げた「私」に従っていたらこれはできません。本来の自分の設計図を閉じて、ずっと迷子のまま、死ぬ直前になって、もっと自分に優しくしてあげれば良かった、もっとやりたいことをやればよかった、といって死んで行くことになる。前も書いたけれど、こういって死んでいく人は多い。

こういうと、安易な方向に向かってしまう人がいるかもしれない。あ、そうなの、好きなことだけやっていいの、と、華やかな成果の部分だけを追って、土台になる地道な苦労は一切しないし、土台の存在にさえ気づかない。今の現実に向かい合うのは辛すぎるから目を背けたい(こんな正直に気づいていればましだけど)、ポジティブ思考が大事!と現実に蓋をしてフワフワと居心地のいい慰めや癒しに向かい、古い考えを押し付け、私の頭を抑える代わりに、いいところを伸ばしてくれて、すばらしい可能性をあたえてくれる「運命の出会い」に、直感が大事と飛びつく。行き着く先はカルトでコントロールです。辛くて辛くて仕方ないときには、目の前に差し伸べられた悪魔の手にすがるものなので。芯が揺らいで弱くなっているときにつながるのは、たいてい誘惑です。自分の魂のステージに応じたものにしか、人は出会わない。

肥大した自己のところで言いましたが、西洋人と深く付き合うと、彼らの芯の弱さが見えてきます。要するに根っこがぐらぐらなのです。縦がよわい。
唐突ですがこれは先祖とのつながりの希薄さにあるんじゃないかと思えます。
私たちは私一人のものじゃなくて、先祖の集合体。
私たちはつながっている。
この絆を断たれているから彼らは弱いんじゃないか、
だからエゴを肥大化させないとやってけないんじゃないか。

一見ベタベタしていて仲良さそうに見えている家族の希薄さ、
肥大したエゴのぶつかり合い、
自己の確立、自己の成功、
妄想と競争、
こうした中での、絶対的権威による、救済。

日本人は、違う。人との関係性の中でしか生きていけないということを、国民中で体現している。常に他人の動向を押しはからい、察し合う、根回し文化。折にふれ先祖と語らい、自然界に住む八百万の神との絆を大事にして来た、融合文化。

イギリスの作家カズオイシグロは、5歳の時にイギリスに渡って以来、イギリス人でも日本人でもない、浮遊した自己を持ち続け、それを作品で書き続けて来ました。彼にインタビューした記者が、彼が日本人のこともイギリス人のこともtheyと呼ぶのが印象的だった、いうのを読んだことがあります。私は西洋人と日本について話していると、いつもいつのまにかweになってるよね、と言われたことがあります。これは意識していなかったので驚いた。私は集合体としての日本人なんだな、と。

他者と関わり、他者との関係のなかで生きて行く、わたし。
白いキャンバスでいつづける、わたし。
その私が守り続ける、ブループリントの存在。

わたしが大事にしている事。
2014. 04. 12  
個人的に思いを込めて書いたものこそスルーされるもので、白いキャンバスでいつづけることもそうだったのですが、以前体験談のところでご紹介したFさんが本当に久しぶり(1年ぶり)に私を思い出してくださって、そうしたら偶然この記事が目に飛び込んできたそうなのです。

実はFさんて、まさしくこの白いキャンバスを連想する方なのでした。

相変わらずよくできた偶然が続きます。続きを書いてくださったFさんに背中を押されて、私も続きを書きたくなりました。色々な方へのお返事もここに含めて。

白いキャンバスが試される機会は、解りやすい例だと恋愛かな、と思います。
恋愛って、もっともディープに人と関われる。
そして、人間関係の深淵を体験できる。
感情のMAX振り切れを体験できるし。
すぐに相手に「開きっぱなし」になってしまう私は、どれだけ手ひどいめにあったか。

ホメオパシーやっててつくづく思うのですが、自分を真に癒す一粒っていうのはシミリマム(最近似)。自分自身ではなくて、あくまでも自分に最大限似た他者、なんですね。

似てれば似てるほどいいのなら、同一が最強じゃないか、例えば癌を治したかったら自分のがん細胞から作ったレメディが最強じゃないか、と単純に考えたくなるでしょうが、アイソパシー(同一療法)はホメオパシー(同種療法)ほどに深く作用してくれない、部分的な治療にしかならない、ということが知られています。

人は人との関わりの中でしか、癒されないんだな、というのが、自然界の教えてくれた結論。

私は、私こそが私を治せるんだ、その自己治癒力をどうか信じて、とずっと強調して来たので、え?私を真に治すのは私じゃなかったの、と混乱させてしまってごめんなさい。

自分を真に癒す存在は自分です。
私の現実は、私が創り上げてるから、私の思いが変われば現実は一瞬で変わる。

でも、この「私」というのがくせ者なのです。
私というのは他者との関わりではじめて生まれる、すごく相対的なものなんだ、て最近思うのです。
この私が地球で人間やってるのも、人との関わりの中で私というものを創り上げて経験してみたかったからなのかな、と。

この「私」は、他人からの評価によって作られます。白いキャンバスに、人は思い思いに「私」を描く。私は描かれた「私」をみて一喜一憂する。それは彼らの目に写った私であって、彼らの創作、つまり彼らなのですが。

自分の存在理由や、自分の価値を、他人のジャッジにゆだねる。ある意味これが無私だ、と思ったらそれは誤解です。これは依存です。

人に尽くす、ていうのも依存です。人の役に立つ=認められる。役に立たない私は認められない。条件付きの愛しか知らないのです。頼まれもしないのに人のお世話を焼いているのは、単に自分がそうしたいというこっちの都合であって、これを自覚せず、これが自己実現になっていたり、見返りを期待する心があったら、そこから先は悲劇です.恩を仇で返され、傷つくエゴ。むしろ今まで自分が有形無形に頂いた物に対する感謝が足りなかった、というありがたい学びの機会をいただいて、と踏みつけた人に感謝する・・これが白いキャンバスでいつづけること。

以下、Fさんからいただいたお便りです。了承を頂いて以下に転記させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

確かに私も白いキャンパスでいる人な気がします。
いえ、白いキャンパスでい続けたいです。
「事実をそのまま受け取ること」は
もう長い間気を付けてきていることですし
物事を多方面から過去現在未来からもみること
そしてその事実には絶対に理由があることと
事実は100%事実ではなくほんの数パーセントは
必ず事実ではないとも考えるようにしています。
そう、孝美さんのおっしゃる通りで
同じ体験でも人それぞれ別の体験になり別の世界で生きているので
事実も同じ事実ではないと思っています。
だからそのずれを補修するべく数パーセントは余裕を持つのです。

「すごく生身で弱い状態を人前にさらし続けること」も
本当の私を理解してもらうためには、とても大切だと思っています。
本当の私を分かってもらえたら
相手にも本当の自分を見せてもらえると思っています。

孝美さんはややこしく複雑になってしまったキャンパスの絵に
強い光を当てて真っ白にしてくださる人ですよね。
真っ白に見えるキャンパスに大胆に自由に自分色で自分の絵を描いて
みなさんロルフィングを卒業していかれますよね。
私もそうして卒業させていただきました。
とても感謝しています。ありがとうございます。



私は白いキャンパスをもう持っていないかな…

色々な人に出会っていろいろなことを経験して

あちこち色々な色に染まっていて

訪れた人は気に入った場所に思い思いの色で

色々な絵を描いて行くけれども…

そう、それを私は時には大切に長持ちするように

必死で保護加工したり

消し去りたくて上から色を重ねたり

必死に頑張っても元には戻らず考え込んだり

でも遠くに離れてキャンパス全体を見ると

消し去りたかった部分は自分で上塗りしたので

良い具合にアクセントになっていて

全体的なバランスになくてはならない部分になっていたり

昔々に塗られた部分は薄くなって良くわからなくなっているけれども

その色があるからこそ、その上に塗る色は私色になって

他の誰のキャンパスにも描けない素敵な色になったり

キャンパス全体が見られるようになった今は

自分だけのこのキャンパスが

破けたりボロボロになったり

汚く汚れてしまったりする部分もあるけれども

飛び切り素敵な色の部分もたくさんあって光と影になっていて

何よりも私だけの世界中でひとつだけのキャンパスで大好き

そんなことが分かったのは歳を重ねた最近

ようやっと大きな白いキャンパス全体に色がのってきたからでしょう

たくさんの人々が心を込めた絵を私に必要な絵を描いてくれたからです



そして私はそんなたくさんの人々に感謝の気持ちを込めて

たくさんの人々のキャンパスに光を当てて

真っ白なキャンパスに見えるようにしてあげたいな

真っ白なキャンパスには大胆に思いっ切り思い通りの絵が描けるから

貴方色の絵の具は既に貴方がたくさん持っているから

素敵な絵が仕上がるでしょうね

貴方の素敵な絵を見せてもらうと

私のキャンパスにも優しい温かな貴方色が描かれるわ。

幸せのお裾分け ありがとう
2014. 04. 06  
肥大したエゴ、で連想するのは村上春樹。彼の小説がヨーロッパで妙に受けるのは、その辺が絡んでるのかもしれない。彼の描く小説はヒーロー不在。でも「僕」は自意識の塊。この「僕」の描くシュールな世界はヨーロッパ人にはクールで、アメリカ人には難しすぎて解らない。

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」はいままでと違って「僕」じゃなくて三人称で語られるし、(最近読んでなかったからいつから変わったのかわからないけれど)、主人公の弱さやベタな感情がかなりむき出しで描かれていて、この客観性や、おしゃれを卒業してベタに下がって来たあたり、自分の弱さを認め始めた西洋人とどこかでシンクロしてる気もしてます。色彩〜は、イギリスでも平積みになっていたし、ドイツでもかなり注目されている様子。時代の変化か。

去年久しぶりに小説というものを読んで、久々の小説の世界に感動して妙に褒めてしまったけれど、もしかしてこれって、ご本人が単に歳とったからだったりして。


2014. 04. 06  
事実を曲げるのはエゴで小我だと言いました。エゴは事実を事実としては捉えず、そこに色をつけ、ストーリーを作り上げる。わたしたちは同じ場所で同じ時間を共有していても、同じものを見ていません。受け取るものも違う。それぞれが自分のステージに応じたものしかうけとれないし、それぞれが自分がうけとりたいものしか選ばないので。私たちは一緒にいても、それぞれの世界を別々に生きている。

事実をそのまま受け取る、というのはある意味白いキャンバスでいつづけることなのかもしれない、と、ある方と最近のことをシャアしていてふと思いました。いろんな人が土足で上がり込んでは存分に遊び、派手な絵の具で彼らの絵を思い思いに描きなぐっていける白いキャンバス。エゴなんてものは踏みにじられ、極限まで脇に追いやられる。そのうち、こんなちっぽけなエゴなんてものを意識しなくて済むようになるまで。

「私」をふみつぶす人は、「私」にとっての最強の教師です。この私が感情的に極限状態になるまで影響を与えてくれるような人とは、そうそう巡りあえないもの。大事な出会いです。そこまでのものをもたらしてくれる人というのは、ものすごくありがたい学びの機会をあたえてくれる、ありがたい存在。そこで経験した怒りは、かつて私が誰かにもたらしたものかもしれない。そこで経験した悲しみは、かつて私が誰かにもたらしたものかもしれない。それらを気づかせてくれる、ありがたい存在。

白いキャンバスでいつづけることは、すごく生身で弱い状態を人前にさらし続けることです。スキありありの状態。あるいは中島みゆきのような「やられっぱなし」の状態。(娘は私が中島みゆきを聴き込んでいるのを知っている。)西洋人がこれに根源的な恐怖を感じるのは、彼らが「私」の世界で生きているから。「私」の成功、「私」のハイパフォーマンス、こういったものに価値を置く生き方は、根源的に不安と恐怖から離れられない。

私が西洋人の間で何故やっていけてるのかというと、私はもともと他の人からの期待値が低いので、こんな「成功」のプレッシャーに縛られなくて済んでいるからだと思っています。もともと失うものなどなにもない。”I win, you lose"という肥大したエゴの世界には、もともと関心がない。これを言うと、西洋人はものすごくショックを受けて絶句するのですが。日本人の私たちには、当然の感覚ですが。

白いキャンバスに、思い思いの絵を描いていく人たちを、ただ見送ればいい。そこに残された絵、そこに残された傷跡は、そのままその人達へのプレゼント。そこには彼らがみた「私」が描かれているかもしれないけれど、それはそのまま、それを描いた彼らでもある。私はただの白いキャンバス。

2014. 04. 04  
whyをhowに代えてみませんか?という記事に対して、whyの部分をしっかり知らない限りhowに結びつかないのでないか、という質問をいただきました。私たちの社会と教育システムが基盤とする、「傾向と対策」の考え方。これ、言われるだろうなーと思っていたので、思わず真剣なご本人を前に爆笑してしまいました・・すみません。

傾向も対策も、自分の思考の域を出ていません。思考は小我(エゴ)です。そしてその思考は必ず不安を引っ張って来る。思考のレベルにいる限り、未来への不安は決してなくならない。要するに、真面目に原因を考えれば考えるほど、自分のこしらえたストーリー(事実とは違う)のどつぼにはまり込んでしまい、そこから得られる対策も当然、自分の創り上げたストーリー(事実とは違う)を増強するにすぎない、ということです。whyを真面目に探求することによって、苦しい今のパタンをさらに増強している、というしくみ。真面目な人ほど、悲劇です。

繰り返します。whyを探ることによって得られるのは、予期不安です。whyを探る事によって得られるのは、私(自我=エゴ=小我)の創り上げたストーリー。小さい私の頭が創り上げた世界の中で必死に探しまわっているだけなので、そこから得られるhowも、今までの経験から当然予期される、今までのパターンの延長なのです。whyの思考がひっぱってくるのは必ず新たな不安材料です。過去のストーリーはトラウマになり、未来は不安に溢れたものになる。

じゃあどうすればいいんだ、と思うはず。whyを知りたい、起こった事実の因果関係を知りたい、と思ったら、それは自分の思考が創り上げたストーリーだ、ということを真っ先に意識するのが大事だと、私は思っています。自分にこういうパタン(カルマ)があるという事実を、もう一人の自分が冷静に見ている状態。演じる私とそれを見る私。それが、実は表裏一体なのですが。

私自身はものすごく失敗するし、感情や思考に振り回されます。そして、地球でこうやって思い切り演じられる自分を、面白く思っています。今は、演じつつそれを観察することが面白い。以前はこの2つは分かれていましたが、今は表裏一体です。

一方、別のパターンもあります。

最近ライトワーカーと呼ばれる人たちの受難をたくさん目にして来ました。私はあえて、他の人たちと一緒になってお決まりの「愛」とか「光」とかいう、心地いいけれど実体を持たない言葉でご本人を慰めなかった。むしろショックで絶句するようなことを、本人にあえて言いました。自分の現実逃避は、自分では見えないものなのです。今日の宿のない私、この請求書を前に途方に暮れる私、「運命の人」の真の姿を知ってしまった私。むき出しになって、極限まで弱くなったときに、私を本当に救ってくれるのは、きらびやかな慰めの言葉でしょうか。心地いい世界に再び逃げ込む事でしょうか。

言葉はマジック。マジックは権力と結びつく。権力といえばお金。このパタンはでもすっごく表面的で可愛いくらい。このレベルに私たちは長くいたようですが。

きらびやかな虚飾の世界も、予期不安で押しつぶされるのも、両方現実逃避だと思っています。howというのは、もっと、身もふたもない世界。

プロフィール

rolfertakami

Author:rolfertakami
鎌田孝美(Takami Kamata)

http://www.takamirolfing.com

・・・・・・・・
ヨーロッパロルフィング協会に所属する、
ヨーロッパで第2号の日本人ロルファーです。
英国スクールオブホメオパシー
アドバンスプラクティショナーコースに在籍し
現在臨床を行っています。

・・・・・・・・

内側に深くしまいこんだこだわりを、抱きとめ、見つめ、解放し、
かわりに内側で眠る可能性に光を与える。
身体が目覚め、失ったものを取り戻していく過程を
みなさまと楽しんでいきたいです。

・・・・・・・・

・ヨーロッパロルフィング協会認定
公式ロルファー
・同ロルフムーブメントプラクティショナー
・直傳靈氣師範
・全米ヨガアライアンス認定
ヨガインストラクター
・陰ヨガインストラクター
・ソースポイントセラピー認定施術者

・・・・・・・・

<セッションのお申し込み&お問い合わせ>

rolfertakami@gmail.com


・・・・・・・・・
2017年夏 東京セッション
6月27日(火)〜7月9日(日)


2017年 直傳靈氣講習会(東京):

前期6月30日(金)18:00〜21:00(日中への変更可)
  7月1日(土) 9:30〜12:30
       14:00〜17:00 
後期7月2日(日)9:30〜12:30
       14:00〜17:00 
      

直傳靈氣交流会(フランクフルト)

3月11日(土)16:00〜18:00


直傳靈氣交流会(東京)
7月9日(日) (予定)

参加お申し込みを受け付けております。
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Profile:

Takami Kamata

Certified Rolfer®
Certified Rolf Movement®Practitioner
Jikiden Reiki® Shihan
Registered Yoga Teacher
SourcePoint Therapy® Practitioner

Contact me at:

rolfertakami@gmail.com


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