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2014. 10. 29  
先日世界一周旅行をしながらその合間にミュンヘンでロルフィングトレーニング中という大塚英文さんとフランクフルトでお会いしました。今年の1月にいらした佐藤耕祐さんもそうでしたが、世界一周とロルフィングトレーニングは相性がいいのですね。

彼と私を引き合わせたのが、私たちのフェイズ2の共通の教師だったGiovanniでした。3人ともヨガの教師というのが共通点です。大塚さんはフェイズ3はアメリカで受講される予定だったがいまこのままヨーロッパで受講するか検討中と伺って、思わずヨーロッパロルフィングを強く勧めてしまいました。

その大きな理由がGiovanniという教師に象徴されるヨーロッパロルフィングの性質。私は主要なトレーニングをほとんど彼から受けていて、とにかく彼の影響を強く受けています。

Giovanniは南アフリカ生まれのイタリア人でもと俳優、今はロンドンの超売れっ子ロルファーであり私たちの教師でありヨガの先生です。今はロルフィング協会だけでなく、大学でもムーブメントを教えています。彼は今は一線を退いたウベアゴダールから強い影響を受けています。

たとえば大塚さんがブログに書いてらっしゃる絵画史と身体はGiovanniの授業の一部だそうです。これは私のフェイズ2の時には言っていなかったと思いますが、いかにもGiovanniらしい一級の進化論。私は彼のこういうところがたまらなく好きなのですが、多くの人にはso whatかもしれません。

Giovanniは前職や現職が物語るようにパフォーマーで、エンターテイメント精神旺盛で、彼の授業は遊びいっぱいですごく楽しいのですが、こんな風に彼独特の審美眼でロルフィングをいろんなものに結びつけたり、セッション自体も自由度が高いので、しまいにどこに向かっているか見失うこともよくありました。私はもっともコアなトレーニングといわれるフェイズ2でGiovanniに習ったことは本当に運命だったと思っています。ひっこみじあんだった私が「なにやっても許される私」に大変身してしまい、今も私のセッションは変わり続ける有機体のようであるのは彼の影響が大きいと思っています。

彼はオープンエンディングの天才でもあります。10シリーズは彼の手に渡ると枠組みがまるでないかのような広がりを見せるし、実際10セッション目は「終わり」に見えない。もちろんダラダラその後も続くというのではなく、新たな旅立ちという意味合いが強いということです。一応ロルフィングは10セッションでいったん完結ですが、それは完璧を意味するのではなくて、その後も成長は続くし、私たちは変わり続ける、ということです。

Giovanniはこんなふうに自由ですが、シリアスに哲学や心理学、現代思想を学んできた人でもあります。授業はそのあたりのベースがないとついていけないところもあって、私はたまたまミシェルフーコーなどを読みあさっていた時期があったので従来の関心を刺激されて面白かったのですが、そうでない人にはピンと来ないし、メカニカルなことや実践的なことに対しての関心が強い人、権威に従いたい人、単純明快に解を示してほしい人にとっては彼ののらりくらりさは拷問になります。だいたい質問に決して直接の答えをまずくれない。彼の禅問答にはもう耐えられないとばかり、ある生徒がついにdiciplineというものはないのか!と逆上したのを思い出します。彼女はその後アメリカ人のトムマイヤーをこれぞ教師と絶賛していました。この件はアメリカとヨーロッパの違いを語る上で象徴的です。

Giovanniを一言でいうと、spaceを体現する人。spaceは空間といっても、間といっても、隙間といっても、いいかもしれない。彼は間が人を引き出すスイッチを押すということを本当に自覚しています。セッション中にわざと入れる間、クライアントとのボーダーのとりかた、質問を質問で返して、その人に自分でさぐる間を与えること、etc.

最初は私はGiovanniのその本質が解らなかったのです。観察しながら、いくら分析しても収まらない何かがひっかかっていて、それがスペースだったと解ったのはだいぶ最近のことでした。ちょうどその話を大塚さんにした後に、まさにその大塚さんがスペースについてブログに書いていたと知って、驚きました。joint/articulationは本当になるほどと思いました。

欧米ロルフィングの比較については大塚さんがすでにブログでまとめてくださいましたのでそちらをご参照ください。大塚さんは他にも、難しいところもあるロルフィングの性質を正確にわかりやすく書き起こしてくださっていて、ロルフィングにご興味がおありの方々には知恵と情報の宝庫だと思います。大塚さんにはぜひ引き続きフェイズ3までヨーロッパロルフィングの世界にどっぷり浸っていってもらいたいと思います。
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2014. 10. 19  
今週末は本当に久しぶりに奇麗に晴れ上がりました。異常に寒かった8月と異常に暖かい10月。雨の続いたこの1週間は妙に人がこぞって体調を崩したり精神的に乱れて、交通事故が相次ぎました。地球から怒られてるみたいでした。日本でも、季節外れの台風がまるで日本の大洗をするかのような通過の仕方をしていましたね。まるでもはや鬼門になってしまったフクシマの、触れられたくない部分に目を向けよ、と怒られているみたい。

これもポッと貸していただいた「迷惑な進化」という本を読みました。2007年の刊行だから私日本にいたはずなのですが、同年刊行の「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」と同様、あのときは出会いませんでした。最近思いますが、私たちが何を受け取るかは、一瞬一瞬自分で選んでいる。どこにいるか、何をしているか、というのは実はあんまり関係ない。どこにいても、何をしていても、気づく時は気づくし、受け取る時は受け取る。逆にどこに幸せさがしにでかけても、どんなにいいことをしても、自分が育つまで気づきはやってこない。

この本、賛否両論ですが、面白かった!私が今更紹介するまでもなくとっくに色々な書評がすでにまとめてくれているし、面白いので実際読むのが一番です。一部の専門家は厳しい批判をしていますが、だったらあなたもこれくらい自分の専門について思い切ったことを言ってみよ、面白く紹介してみよ、と言い返したい。専門家って、ひとりよがりだと感じることが多いのです。あるいは自閉症。どんなバカでも解るように説明しなさい、とアメリカでいわれて目を丸くしたのですが、確かにアメリカ人にはそういうサービス精神がある。進化医学の専門家である著者のアイディアを解りやすく書き起こしてくれたジョナサンプリンスという人は、大統領のスピーチライターを務める人だそうですが、なるほどこの人の仕事はすごく重要だと思いました。

たとえばこんなことが書かれています:

鉄代謝不全(ヘモクロマトーシス)はペストの生き残り
糖尿病は氷河期の生き残り
ソラマメ中毒症はマラリア対策
日光浴はコレステロールを下げる


日光浴というのはビタミンDとコレステロールの駆け引きだったのですね。日光浴は皮膚をとおして体内のコレステロールをビタミンDに変える作業。自然の太陽光はビタミンD生成に不可欠ですが、同時に紫外線は葉酸を破壊します。ビタミンDは心臓、神経、血液、免疫系、骨の発育に必須、葉酸は細胞増殖に必須。コレステロールは細胞膜を維持し、免疫系やホルモン系にも重要だけど、多いともちろん心臓病や脳卒中につながる。

つまり日光浴をするということは、ビタミンDを得るのと引き換えに葉酸を失うという作業で、そのバランスを維持するのが、肌の色とどこに住んでいるかでかなり変わってくるそうなのです。日本だと日焼けによる葉酸の破壊の方に神経質ですが(それともしみそばかす?)ここにいるとビタミンD不足による骨粗鬆症や子供の発育不全が深刻なので、ドイツ人が晴れた日に必死で日光浴し、冬は太陽を求めて南下する裏付けになる。太陽光の少ない冬に、わずかな紫外線を使って最大限のビタミンDを作るためにコレステロールを上げる役割をするのがこのあたりに住む人に遺伝的に受け継がれるアポリポタンパクEで、これは同時に心臓病、脳卒中、白人だとアルツハイマーのリスクを高めている。これは身近に起こっていることなので面白かった。緯度の高いところに引っ越してからコレステロール値が上がった人は、サバイバルに向けた適応反応と思った方がいいかも!?

ユダヤ人はユダヤ人にしかない遺伝子を共有している。それは3180年前、出エジプトとエルサレムの第一神殿破壊のあいだ、大司祭アロンが大地を歩いていた頃の2、3人のY染色体だ。

私はいままでユダヤ人というのは民族ではなくて、ユダヤ教を信じる人たちだと思っていたので、これには驚きました。ユダヤ人が、我々は家族だ、と断言するその意味がよくわからなかったのですが、その選民思想は特定の遺伝子を指すものだったのか。

でも個人的にもっとも面白かったのが、なんといっても第5章「僕たちはウィルスにあやつられている」:病原体と寄生生物の話。

病原体や寄生虫がどうやって新たな宿主に乗り移るかの叡智については、うなるものがあります。

たとえば羊の肝臓に寄生するランセット肝吸虫が、新たな宿主となる個体に乗り移るまでのいきさつ。生んだ卵が羊の糞とともに外に出ると、カタツムリ→蟻と移動する。そして蟻の脳に向かい、神経を操作すると、蟻はいきなり「らしくない」行動をとるようになる。

夜な夜な巣を抜け出しては、草の葉のてっぺんにのぼって、そこでぼーっとする。これは、草食動物の羊に食べてくれと言っている自殺行為に等しい。夜があけてもまだ命があれば巣に戻り、日中は蟻としての職務に励み、夜になるとまた草場に出かける。(P131)

あまりにも面白すぎる。寄生虫は一体全体どうやってこんなことを可能にさせるの??

クモに寄生するハチが、クモに自分の繭を固定する巣を作らせるまでのいきさつは、さらにドラマティック。
他にも:

ある異性に性的に強く惹かれるのは自分と異なる免疫系をもつ相手を嗅ぎ分けている

トキソプラズマ感染症⇆統合失調症?

トキソプラズマに感染すると女性は急に衣服にお金をかけて身なりに気を遣いだし、男性関係を多く持つようになるが、どこか信用が出来ない


話が激しく飛躍していそうで、妙に説得力がある。

昔「24人のビリーミリガン」という本を読んで、これ憑依の話だと思ったのですが、案外寄生虫も憑依も似たシステムなのかもしれない。

第6章以降は、確かに私でも突っ込みたくなる展開ですが、それでも遺伝子の話はいつでも面白い。

乱暴にまとめれば、人間はウィルスとのハイブリッドで、人間の進化はウィルスや細菌の貢献による、と読めてしまう。なぜなら人間のDNAのおよそ3分の1がもとウィルス。とくに進化に必須の遺伝子の突然変異はウィルスによるもので、逆転写酵素を使ってDNAの情報を書き換えてしまうRNAはレトロウィルス由来だから。

万物の霊長たる人間などといって大いばりしている我々は、寄生虫やウィルスやバクテリアと太古から共存してきて、彼らに頼りながら彼らとともに進化してきた、という筋です。

この結論には妙に納得するのです。私は集合体だ、と感じてきたからです。つじつまのあわない感情や記憶のフラクタル、相反する2面性。先祖や過去世だけじゃ解決出来ない奇々怪々な現象については、私は寄生されている、いろいろな存在と共存している、とうけとるとすっきりするかもしれません。
2014. 10. 19  
今、急に体調を崩したり精神的に落ちる人が増えたりしていて、垣根が薄くなっていてエネルギーが乱れている、と感じることが多いのですが、こういう時は、ふと普段気づかなかったことに気づいたりします。

ある方に教えていただいたのですが、私たちは2パーセントしか見えていない(98パーセントの見えない世界がある)ということです。パーセンテージはともかく、この感覚には深く頷きます。その方が、私が見えていなかった98パーセントの扉をすこしあけるキーをくれました。

私が引っ越してきたこのBleibiskopfという通りは遺跡跡地だったそうなのです。ケルト文化の遺跡跡地。日本語だと骨壺墓地文化。びっくりしたのは、骨壺墓地文化にではなくて、遺跡跡の写真に移っていたストーンサークルと、この骨壺。wikiに載っている写真はまるで日本の縄文時代の遺跡跡と瓜二つ!目の錯覚かと思うほど、私の記憶にある、母の生まれ故郷の縄文遺跡跡と酷似している。ここドイツよね。

この家にはものすごいエネルギーが降りる、と感じていた理由が解りました。ここって、私があそこだ、と妙に確信しているパワースポットと、障害物なくダイレクトに結べる配置なのです。実際にストーンサークルがそこにあるのでしょう。エネルギーが繋がっている。

実はここが遺跡跡だと知らされたのはこれが初めてではなかったのです。直傳靈氣の師範の講習会の時にある参加者と話していて、ふと私の住所を言ったら、私その辺りに発掘に行ったことがある、といわれたのです。彼女はたしかケルト文化専門の考古学者だと言っていました。住所を選ぶ段階でも住み着いた後も、この土地がどういう土地か興味をもたなかった私がどうかしていたのですが、2人の方を通してこの遺跡に気づけ、と言われました。そして解ったのが、ドイツと日本を結ぶリンクがケルト文化にあるかもしれない、ということ。

今更の話でした。wikiの写真をみてぎょっとして、縄文文化を連想したのは私だけじゃありませんでした。すでにたくさんの人が日本とケルトの共通点について指摘してきている。(たとえばケルトと日本の信仰の比較

このページはものすごく面白かった。私が以前から関心があったことが、全部ひとつになっていて。百人一首の猿丸大夫のおくやま〜の歌は、私が絶対に誰にもとらせなかった札。対比として紹介されている古代アイルランドの詩も、確かに同じ匂いがする。岡本太郎の感嘆には大きく頷きました。私も、ケルトの渦巻きをみたとき目が釘付けになってしまった。あまりにもなじみがある。

多神教、アミニズム、輪廻転生、これは私にとってはあまりにも当たり前の感覚で、なぜここまできっぱり当たり前と言い切ってしまうかについて探ったことがなかったのですが、ルーツが縄文文化ーケルト文化だったのかもしれない、と思えます。

思えば2年前に”連れて行かれた”マルタ島での巨石遺跡とストーンサークル。あそこで不思議なデジャヴとエネルギー体験をして、その後”読まされた”「神々の世界」で、マルタ島と縄文文化がおそらくつながっていると知りました。そして、今回”呼ばれた”ここで、さらにそれがケルト文化に繋がっていることを知りました。なぜ私がドイツに連れて来られて、ここにいるのか、その縁の一端が解った気がします。

ケルト文化は謎が多いと言われています。文字を使わず、口承だけで伝えてきたから。だから叡智を伝える役割をもつ神官のドルイドは特別重要な地位を持っていた・・ここまで知って、なんだかこれも以前貸していただいた「アナスタシア」に出てくる吟遊詩人(バード)に似ている、と思ったら、なんてことはない、バードはドルイドの末裔だったのですね。

ヨーロッパ全土にはケルト文化が影のように残っています。このオーバーウアゼルは、とくにその傾向が強い。人々に、自然との共存を愛し、口にするものに意識的で、昔ながらの伝統を無言で守り続ける佇まいがある。

私はケルト文化には相反する思いを抱いていて、ものすごく惹かれる一方で、根源的な抵抗を感じます。これマルタ島で感じたこととよく似ていて、その野蛮さにかなり抵抗を感じるのです。血塗られた歴史がべったりと張り付いているような。マルタでもおそらく行われていたように、ケルトでも生け贄の儀式があったようです。彼らの血の気の多さにはすくみ上がる。私の前世は殺されてばかりの気がしているのですが、たぶんここでも殺されたんだろうと思っています。

すくみ上がるような思いと同時に感じ続けるどうしようもない魅力は、そこにある、いまはこぼれ落ちてしまった叡智。彼らの行っていた儀式と、医療技術。ロルフィングは解剖生理学だ、これが基本だ!といいつつ、その傍らで5年に渡ってせっせとやっているのが、周期表の鉱物のキャラクターを知り合いに当てはめ、毒草にロマンを感じ、病原体に感情移入するホメオパシー、むこう2年でSomatic Experiencing、むこう9年でクラニオセイクラル、その先にさらに大きな関門、大変すぎるから息抜きに精油の調合。我ながらイカレてる、どうかしてる、と思ってきましたが、ここまでいろいろ知らされると、これらが全部きれいに仕組まれていることのように思えてきてしまいます。

これらのリンクを全部奇麗に繋げてくれたのが、直傳靈氣でした。私にとってはエネルギーの世界を視覚化するための便利なツールです。そして、これを通してどうもいろんな人が動く。これからはやっぱりエネルギーの世界が、見えない98パーセントを見る為のキーになるんだろうなと感じています。








2014. 10. 10  
コミットメントのさらなる続き。

コミットメントは「誰が、何に、」という主体とベクトルがないと成り立たないのですが、日本人がこれに抵抗を感じるのには、そもそもその主体とベクトルが他の国と違うからという気がしています。

武道で大事なのは受け身。相手の影のようになる、という感覚。これは主体を完全に消して、私から相手に向かうというベクトルも消す、ということ。私たちの国民性でいうと、この無心の境地をめざすという感覚のほうがたぶんつかみやすいし、美意識にも添う気がしています。

逆に外国人は主体(エゴ)から出発するので、コミットする、というのは当たり前の感覚。「私がOOをする」というのが彼らの日常だし人生のゴールだから。彼らはだから武道で受け身、といわれると、自分が人生かけてやってきた方向と真逆なのでショックを受ける。達成主義の人生に疲れたり違和感をもったガイジンが、日本のこのゆるさにあこがれ、さらにこの先にある深さに魅力を感じるのも当然だと思います。

コミットメントで勝負を迫られるといったら、まず恋愛関係。

私⇆あなたというベクトルの均衡をめぐって押しあり引きありの駆け引きを繰り広げ、その駆け引きの中で自分のコミット力を試す絶好のチャンスを与えられるのが恋愛。こういうとベクトルを上手に操れる人(恋の駆け引きの上手な人)が恋愛力のある人みたいに思われるかもしれませんが、私は違うと感じています。

恋愛力とは、どれだけ捨て身になって「私→あなた」にドォーっとエネルギーを注げるか、だと思います。モテるかどうかは別。「あなた→私」に過敏で、受け身な人は恋愛力なし。「私〜>あなた」のようなもったいぶった人も、ない。「あなた↑私」が見えなくて、「私⇒あなた」にのめり込むのがストーカー。

これに関しては、ガイジンに学ぶこと大いにあります。ガイジンは主体的です。そして直截です。恋愛上手といわれるフランス人は、主体的で、直截で、捨て身です。言語にもよく現れてる。

以前から不思議に思っていたのですが、英語とドイツ語(ほかは知らない)に「ふられた」という表現がないのです。いや表現は存在するのですが、私は彼らがそれを使うのをきいたことがない。じゃあ彼らは恋人にフラれたときどういうかというと

(S)he left me. (主体=彼(女)→私、というベクトル)

ベクトルはよく省略しますがそれでも

(S)he's gone. (主体=彼(女))

日本語だと、

振られた。(主体なし、ベクトルなし)

邦題で昔「ふられた気持ち」と訳されたRighteous Brothers(Hall&Oatesのほうがたぶん有名?)の
「You've lost that lovin' feelin'」は、直訳すると本当は
「君はもう愛する気持ちを失った」


歌詞の内容だって、(私が)ふられたという、受け身で諦観の気持ちを歌ってるのでは全く、ない。最初から最後まで主体は彼女で、彼女のさめていく様子にジタバタと往生際悪く、お願いだ、お願いだ、戻ってくれ、愛をくれぇぇ、と叫んでいるというのが実際です。曲はすごく好きだけど、こんなに幼稚にすがられたら彼女はその後間違いなく完全に去ったと思います。(でも恋愛力は◎、コミット力は

私は海外に出て一番にうけた洗礼が、「君はどうしたいの」でした。これには本当に困った。議論でも、論文でも、そういう考え方ありますね、こういうのもありますね、どっちも一理ありますね、みたいなことをすぐ言いたくなってしまう。ディベートはもっとも苦手でした。どっちにもつけない。つきたくない。まあまあ仲良くやろうよ、おとしどころ見つけようよ、と言いたくなる。

アメリカの次に来たドイツでロルフィングのトレーニングを受けたとき、やっぱり直面したのが「君はどうしたいの」だった気がします。

私はどうしたいの
何から自由になりたいの
そしてどこに行きたいの

ということをずーっと問われた。身体と向かい合うことによって。「私はOOする」という姿勢には責任が発生する。受け身なら楽なのに。ここに根源的な抵抗があって、それが身体からどうしても開放できない硬い芯になっていたのを認めるのはかなり辛かった。

私は本当はこんなにものをはっきり言う人間ではなかったのです。むしろ私が主体になってしまったらいけない、あなたあっての私、のほうが関係がうまく行くし居心地がいい、とずっと思ってやってきました。ロルフィングトレーニングに出会うまでは。

ロルフィングの1日のトレーニングを終えていつものようにレストランで食事をして帰ろうと思ったとき、一緒に歩いていた友達が、私も一緒に行っていい?と聞いてきました。私は正直もう一人になりたかったのですが、もちろん、と元気に承諾しました。私の前に座った彼女、「帰ってほしかったら帰ってって言って、すぐ帰るから」そんなこと本人目の前にいえる訳ないだろーと思って、やっぱり「とんでもない」と続ける私。

今だから解るようになりましたが、ここで目の前の本人に向かって、私もう疲れてるの、一人になりたいの、帰って、て言うことは失礼でも何でもなかったのですね。断ったら関係がまずくなるなんていうのは勝手な思い込みで、断ってもあっそう、じゃあ、明日ね!と何事もなかったように関係が続くものだったのです。誘ったときに疲れてるとかだるいとかいう漠然とした理由で断られたらもう、自分の全存在を否定されたような気になる、というのはーかつて私がそうだったのですがー日本人の不自由さです。

自分の当然にチャレンジをうけつづけて、一皮二皮と剥され、気が付いたらこんなに気の強い主張ばかりする女になりました。どこまでが生来でどこからが訓練かもうわからなくなりつつありますが、でも振り返ると主体とベクトルのない受け身の漂いは辛かった。向かう先は無なのだけど、無を自覚するには無じゃないものをいちど体験しないと解らない、というのが最近の実感。(この主体性なく漂うのをチェーホフは「かわいい女」と呼びました。これを聞いて素直に喜ぶ人は本当に「かわいい」。)

おせっかいだと解ってます。でも、かつての私と似た不自由さのなかにいる人が気になって仕方ないのです。日本人は精神性が高くて、人間の目指すところに本来近いところにいる。でも受け身が裏目に出て、「漠然とした何か」を追求することは「許されない」と、あきらめて押さえつけている人が多いと感じるのです。もっと追求していい、そして表現していい。「私が、何に」ということを。これが日本人の身体と対話していて日々感じること。
2014. 10. 09  
なんで連日村上春樹のことばかり気になるのか不思議なのですが、やっぱり私も今彼を通してこの問題にコミットせよということのようで、今日もしつこく続き。

私は好きな表現者は(嫌い嫌いといいながら村上春樹はやっぱり好き)その人が魂を込めた作品に耽溺して妄想しつづけたいので、あまり生の本人を知りたくない。たぶん本人も、晒されている部分でめいっぱいサービスしている分、知られていない部分を守りたいはずで。

そういう理由で村上春樹も、実は小説以外には手を出したことがないのです。あの村上ワールドの耽溺が欲しいのであって、それ以上の情報はノイズにしかならないから。エッセイをお勧めしたのは、みんながいいというからで、実は私自身は読んだことない。実感でいうと、村上春樹の小説は、長ければ長いほど耽溺度が増して面白い。(だからねじまき鳥はやっぱり私の一冊)

こうして村上春樹に対し何の参考資料もないまま完全に自分の憶測だけで知ったようなことを言ったり書いたりしてきてしまったわけですが、今回プレゼントという形で対談集を読み、期せずして生春樹を垣間みたら、自分の憶測とは全然違った本人像を見てしまった。そして新たな大発見の続出。この本をこのタイミングでいただいて読んだのも運命としか思えない。

1)まず大きく驚いたのが、彼は小説を書くときにspontaneousでなければいけない、と言っているところ。この人は緻密な計算をしてから書くのでなく、行き当たりばったりで書いていたのか。あんなに込み入ったプロットがいくつも同時に立ち上がって、結末が勝手にやって来るなんて、信じられない。どこか緻密さがただよう三島由紀夫が今ひとつ苦手な私がなぜこの人にはハマるんだろうと思っていたら、この人も「書かされる」タイプだったなんて。(ちなみに村上春樹も三島由紀夫が苦手だそう。)1Q84がなんであんなにばかげた結末になったのか解った気もします。

2)また彼は小説を書くときには「井戸の底に入」ったり、ねじまき鳥でいう「壁抜け」(=意識下で起こる一種のワープ現象)をしたり、「黄泉の国に入って行く」ので、そのときに体力がいるから普段身体の鍛錬をしているそう。小説をセッションに置き換えたら、まるきり私じゃないの。

これに対する河合隼雄の注も面白かった。壁抜けには途方もないエネルギーが必要で集中力が必要で体力が必要、そのときには自分の考えを超えたものになっている、という下り。実感でその通りだと思っています。

河合隼雄のこの一節にもびっくり:
「ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。」・・激しく共感。

3)そして、生春樹は、あっけない素直さ。(小説の「僕」は、たぶん彼の暗部だか開放を求めるインナーチャイルドだかで、)書くこと自体が自分の癒しになっている、と言っている。彼は自己顕示欲で書き続けているのではなくて、救われたくて書いてきたのか・・・。

最近、表現者と言われる方々と話していて、私たち結局同じものに駆り立てられて生きているのね、と感じることが多かったのです。そうしたら、河合隼雄のこの言葉:

「その人にとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういうかたちで生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。」(「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」P167。)

村上春樹は小説家として。
河合隼雄は臨床心理学者として。
(同列に並べるには憚られるが)私はまだ不定形な未熟者として。
それぞれにとってものすごく大事なことを生きないといけない。


もういちどコミットメントに戻ります。

村上春樹が体現していたデタッチメントというのは、日本風のベタベタに対するノーでした。一緒じゃないとダメ、個性があってはダメ、という日本社会に対しての、ノー。

単なる体制に対するノーなら、だれでも出来る。それが団塊の世代の人たちでした。彼らの浮かされたような炎上と、その後のつまらない収まり方を端で見ていて、単純だ、ずるい、と感じた私たち。そしてそのバブルの私たちを見て、同じことを感じたはずの氷河期世代。そしていま、ノーといえる「体制」そのものもあいまいになってしまい、宙にういた「個」が行き場のないデタッチメントを彷徨っている。というか、日本がそもそも、村上春樹が言うように、なににコミットしていいのか解らない国。

では、どうすればいいか。

河合:コミットメントは、一般に考えるように「なんでもしてやろう」とか「頑張ってやろう」というのではなく、外見的にはむしろデタッチしているかのようにさえ見える。つまり「静かで深いコミットメント」なのです。(同、P18。)

村上:コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘って行くと、そこでまったくつながるはずのない壁をこえてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。(同、P84。)

ノーというだけじゃなくて、暑苦しくかかわるんじゃなくて、それでもコミットはできる。自分にとってもの凄く大事なことに。このあたりが個が超あやふやな日本でのおとしどころかもしれません。

どうコミットするか、というのを何十年にも渡って体現してくれていた村上春樹。こんなきれいに表現していたとは知らなかったけれど、彼のめざすものは何となく作品を通して感じていた気もします。

ちなみにこの対談集を読んでピンと来てしまいました。思わず調べたらやっぱり村上春樹の5行も「壬」だった。ブルータス、おまえもか・・・。













2014. 10. 07  
(今年も)ノーベル文学賞候補に上げられてる村上春樹って知ってる?と唐突に娘に聞かれ、この子は知らなかったのかと驚く一方、どう説明していいか言葉に詰まってしまいました。村上春樹を知らない人に村上春樹をどう紹介するか?そもそも娘に勧めていいんだろうか。

彼が世界的にウケているのは知っていますがとくにヨーロッパでは彼のファンは多い。ナカタとおなじくらい有名かもと思ったことさえあります。イギリスの老舗の本屋に村上春樹の特設コーナーがあり、1Q84の日本語版が平積みになっているのを見て驚いた記憶があります。

なぜ村上春樹はここまで海外でウケるのか。

1)吸引力。そのシュールで独特のワールドは、麻薬でデカダンで現実逃避の世界。説教臭さが皆無な脱力した世界。(テーマや主張がはっきりしていて押し出しの強いものが多い海外作品にくらべ、そういうものが一切ない分妙な吸引力があって、何がいいたいんだ、どこまで煙に巻くんだ、と面食らいながら、ついその先を見たくなってしまう)
2)彼の描くデタッチメントの世界はクールで都会的。
3)主語があいまいな日本語の典型である源氏物語やら川端と違って、日本語ぽくなく他言語に訳しやすい。
4)知的。メタファーの使い方が天下一品。彼独特の修辞表現は、気取っていて鼻につくけど、やっぱり絶対彼しかおもいつかない。
5)性描写の生々しさ(作品全体にみなぎるあり得なさに比べ、性描写だけが妙にリアル)
6)人間の暗部をえぐりだす筆力。1Q84のカルトの教祖や、多崎つくるに出て来るアカなどには、ぞっとするくらいリアルな質感がある。


いや、こんな理屈っぽく説明しなくたって、たぶん好きな人は単にハマってしまってるんだと思います。そういう作家です。

毛嫌いする人も多い作家なので、もし何も知らない人に一冊勧めるとしたら。

活字にあまり抵抗のないひとへ:

ねじまき鳥クロニクル(やっぱり金字塔)


村上ワールドに共感しそうな人なら:

羊をめぐる冒険(初期の村上ワールドの典型)


草食化した男子に、病んだ女子に:

ノルウェーの森(これは娘にはとても読ませられない。私が長年処分出来ない本と告白するのも憚られる。)


無難に収めたいのなら:

エッセイや翻訳本。この人は不思議なことに、翻訳しても翻訳されても、村上ワールドが損なわれない。


私も、嫌い嫌いといいながら相当読み込んでいるのをバラしている。


ちょうど先日ドイツ人はコミットするけど日本人はコミットしない、と書いたところでした。村上春樹ってちょうどそのデタッチメントの典型でした。村上好きが感情移入する「僕」は、「やれやれ」が口癖でいつも逃げ半分、自意識ばかりが発達したナルシストでエゴイスト。嫌いな人はその部分にたまらなくイライラする。でも、この夏日本に行った時、クライアントさんから、村上春樹自身がまさにそのコミットメントについて話していると教えてもらったのです。その方にプレゼントしていただいたのが「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」という本。

この両者の対話はものすごく面白かったです。村上春樹の真摯な部分がとてもあっさり書かれていて、ああこの人本当はやっぱり自覚していたのかと。表現者としてレトリックや構成に凝るのは一種のサービスで、自閉症を貫き人生に向き合うことから逃げていた訳ではなかったのかと。「僕」にもう噛み付きたいくらいあたまに来ていた私は、私青かった、やっぱりこの人賢い、と思ったのでした。

河合隼雄は私がもうずっと敬愛して著書を読み続けてきた人で、彼が村上春樹に渡した言葉のなかに、私が長年勉強し続けてきたことへの答えがいくつもちりばめられていた。分析化、言語化は治癒に結びつかないばかりか、傷を深めることにも繋がる、中間がある、というくだりなど。私が日独ハイブリッドの強さといわれたとき連想したのもこれです。

歳を重ねて、時代に課されたデタッチメントからのデタッチメントをしはじめたのかなと思えた村上春樹がもしノーベル文学賞をとったら、今後どう社会にコミットするのか楽しみです。


2014. 10. 05  
今日素敵な出会いがあって、彼女との会話があまりにも面白かったので思わず書いてしまいます。

お互いドイツに住む日本人として、否が応でも日々体現する日独ハイブリッドの効果。彼女曰く、

日本て平面
ドイツは立体

日本は写真にするととても整っているけれど、奥がない
ドイツは写真にすると全く絵にならないけれど、奥が深い

そうそうそうそう!!と思い当たることすごくあります。

オーケストラで言えば、日本交響楽団はいつも完璧に整っていて安心して聴けるけど、でもそれ以上のものがない、ひっかかりがない。ベルリン交響楽団は静まり返った会場に鳴り響くトランペットの第一声をとんでもなく外すなどという大それたことをしてしまうけど、その後聴衆の血がたぎり会場が沸き立つくらいの揺り起こしをくれたりする。

写真といえば、日本人て写真とるときみんな同じポーズで同じ顔しますよね。あの不自然な装いが私は嫌いで、わざとタイミングはずしてシャッター切る口です。どうしてみんな手がああなるの。セルフポートレートを携帯で何千枚も撮って保存しているのは何故?修正技術によりもはや本人とは認識出来ない顔になるプリクラ写真をせっせとあつめるのは何故??私には謎の多い日本文化も、平面愛好、といわれるとすごく腑に落ちます。

これ別に平面が悪いと言っているわけでなくて、わざと平面にして想像力をかき立てる深さにも繋がってますが。

2次元で勝負する浮世絵
VS
遠近法の発達した西洋絵画

表情の変わらない面ひとつで無数の表情を表現する能
VS
これでもかと細部にまで装飾をほどこすオペラ

彼女が日独の施術の違いをいうとしたらこうなるでしょう:

日本人は必ず奇麗にまとめてくれるけれどあまり踏み込まない。
体現するが、それを言語化しない。

ドイツ人は逆で、
かなりコミットする。
wissen(=知識として知っている=理屈は滔々と述べられる)けどkennen(=体験してものになっている)じゃない。

彼女は鋭い。

彼女曰く、だから日独ハイブリッドは相当強い。

私が何故ドイツにいるのか、教えてもらった気がします。何が悲しくて娯楽が少なく冬が長く寒いところで忍耐を続けているのか。そうだった、表面的な居心地の良さが嫌いなのだった。しつこいし、努力なく体現出来てしまうことをあえて努力して言語化してみたいのだった。

その彼女から言われた「孝美さん根性ありますね」
あまりにも唐突に面白いこというんで面食らったら、私のセッションは「いつも隠れようとするソレをおびき出し、それを捕まえるまでしつこく追い続け」ついに開放させるのだそうで、そのしつこさが日独ハイブリッドだそうです。理屈では理路整然と説明してくれるけど結局治せないドイツ人と、奇跡のように治せるけれど自分が何やってるかよくわかってないから怪しい説明しかできなくて信用を得られない日本人。確かに両者を足して2で割ったらすばらしい。

生得のヒーラーの多い日本人。いちど立体ドイツに修行にいらっしゃいませんか?
2014. 10. 05  
来年夏の解散を発表したThe Forsythe Companyのフランクフルト最後の公演DECREATIONが来月フランクフルトのBockenheimer Depotで行われます。

この作品は、カンパニーのダンサー安藤洋子さんがかねてから最高傑作と絶賛していたピースです。主役を踊ったThe Returnsよりも「魂をこめられる」と。複雑で生な人間模様が織り込まれた、非常に深い作品だそうです。私はこれが伝説になる前に最後にこの目で観られることになって嬉しい。今回は洋子さんの勧めもあって、初日近くと千秋楽、最初から2日分確保です。日本からはるばるお越しになる方々もいらっしゃるそうです。

新聞で解散が発表された後フランクフルト市民はものすごく慌てていたので、予約が殺到する可能性があります。チケットは早々に完売になる可能性がありますので、ご希望の方は予約をお早めに。もし予約方法がわからなければ、ご連絡ください。
プロフィール

rolfertakami

Author:rolfertakami
鎌田孝美(Takami Kamata)

http://www.takamirolfing.com

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ヨーロッパロルフィング協会に所属する、
ヨーロッパで第2号の日本人ロルファーです。
英国スクールオブホメオパシー
アドバンスプラクティショナーコースに在籍し
現在臨床を行っています。

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内側に深くしまいこんだこだわりを、抱きとめ、見つめ、解放し、
かわりに内側で眠る可能性に光を与える。
身体が目覚め、失ったものを取り戻していく過程を
みなさまと楽しんでいきたいです。

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・ヨーロッパロルフィング協会認定
公式アドバンスロルファー
・同ロルフムーブメントプラクティショナー
・直傳靈氣師範
・全米ヨガアライアンス認定
ヨガインストラクター
・陰ヨガインストラクター
・ソースポイントセラピー認定施術者

・・・・・・・・

<セッションのお申し込み&お問い合わせ>

rolfertakami@gmail.com
+49(0)6171 279 0088

・・・・・・・・・
2017年冬 東京セッション
12月27日(水)〜1月3日(水)


2017年 直傳靈氣講習会(フランクフルト):

前期10月20日(金)14:30〜18:30
  10月21日(土)9:30〜12:30
       14:00〜17:00 
後期10月20日(日)9:30〜16:00
        
      
直傳靈氣交流会(フランクフルト)
10月23日(月)16:00〜18:00

ホメオパシーについて語る会
10月18日(水)14:00-17:00
内容
ホメオパシーとの付き合い方:
ーファーストエイド
ーミニコンサルテーション
Abby Takarabe, Peggy Bideホメオパスを
聖地スワジランド、オーストラリアから
講師にお招きします。

参加費用:
50ユーロ

直傳靈氣交流会(東京)


参加お申し込みを受け付けております。
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Profile:

Takami Kamata

Certified Advanced Rolfer®
Certified Rolf Movement®Practitioner
Jikiden Reiki® Shihan
Registered Yoga Teacher
SourcePoint Therapy® Practitioner

Contact me at:

rolfertakami@gmail.com


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