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2015. 01. 31  
昨日、フランス在住の国際的振付家の方がいらしてくださいました。世界中を飛び回るお忙しい生活の中で、時間を縫って時々いらしてくださるのです。

舞台人には色々タイプがあって、自分が輝くことに喜びを感じるタイプと、周りを照らすことに喜びを感じるタイプとがいますが、彼女は生まれながらにして後者です。19歳の時から振り付けに携わって来た彼女は、いつも舞台に立つ人間と観客の相互作用によって生み出される空気を感じることにいちばん喜びを感じるそうです。

ーダンサーって舞台で自分がスポットライトを浴びるときが至上の幸福なんだと思ってました
ー私はそう思ったことは一度もない。周りの輝きを観て、一体感を感じて、私がその中で溶けてなくなるその瞬間がなによりの喜び

すべてを言ってもらった気がしました。
踊る禅。

彼女の国際プロジェクトには世界の裏側からも参加者が集まるそうですが、その中にはダンスセラピストや一般人、禅の教師なども含まれているそうです。ダンスは人に見せるものではなくて、自分が感じるためにあるもの、という彼女には強く共感します。

不思議なことに一昨日これも呼吸・ヨガ・瞑想の先生にGabrielle RothのThe 5 rhysmsを紹介してもらったところだったのです。フランクフルトにもあるよ、と。(ここ。クラスは夜で、重苦しいものを背負って帰る前に発散しましょう、という設定でしょう。いつか行ってみたい。)

この5Rhysmsはダンスセラピーとして有名で、踊っているのはダンサーではなく一般人。flowing-staccato-chaos-lyrical-stillnessと流れるこの一連の動きを通して、瞑想を深めていきます。

うたうことと踊ることは今までも、これからも、私たちから奪うことは出来ないだろうな、と思ってきました。むしろこれからはこういうものが私たちの気づきと目覚めを手伝ってくれると強く感じる。そう思っていたところ:

自分の身体を感じること。人との一体感を感じること。その先にあるものが、溶けてなくなる感覚。

彼女に、まだ言葉になっていなかった想いを引き出してもらったように感じました。彼女、いつもそうなのです。わざわざ来てくださって、そして今の私のゆく先を遠くまで照らすようなメッセージをくれる。あのときの彼女の言葉を何度も思い出してどれだけ支えられてきたか。まるで女神。確かに私が人生でいちばん喜びを感じるのがこの溶けてなくなる感覚。無我の境地とかクンダリーニ覚醒とかいろいろ語彙を当てられていますが、彼女のこの表現が私にはいちばんぴったり来ます。

私が溶けてなくなる感覚。

この瞬間が好きでセッションやっているし人とかかわっている。

彼女を特集した記事が今度雑誌に載るそうです。(残念ながらフランス語。)vogueの記者であるインタビュアーの編んだこの特集は世界の一線で活躍する女性を取り上げたものだそうですが、面白いのはこれがいわゆる人生のサクセスストーリーの紹介ではないということ。ただ淡々と、そのときしっくり来るものを大事に、感じるに従って生きてきた、という彼女と似たような生き方をした人ばかりを取り上げているそうです。人が惹かれる価値観というものが変わってきている。

今までの社会が、ある型に向かって突き進み、どれだけその型に自分を似せたか、それに至る道でどれだけ人を蹴落とし人から奪い、人より多く獲得したかに価値を置くものだったとしたら、これからの社会はそれのまるで対極にあるところを目指し始めたと感じています。

表現者として発信する立場の人が、型も魅せるための技術もいらないという。舞台で自分をよく見せようというフリが出てしまうと、もうそこは虚飾の世界。そういうものには最初から惹かれなかったという彼女。彼女の敬愛するダンサーは、とにかく自分がどう見えるかということには全く感心がなくて、とにかく無心に楽しむ人なのだそうです。「その姿がどれだけ美しいものか本人は気づいてないけど。」

doingでなくてbeing.
いま、ここを生きる、このあり方。

時代はdoingからbeingにむかって進み始めたのかもしれない。

例の1%の人たちが牛耳る今の世界は、不安と怒りで人をコントロールし、人から奪うことで自分がどれだけ獲得するかを競う、終わりなき戦い。フランスというのは、憎悪をかき立てる風刺画で挑発し、とにかく戦争に持ちこんで1%の人間を儲けさせようとするマスコミと、人に光と気づきを与えるマスコミが共存できてすごい。(いや、情報が見事に統制されている日本を基準に判断してはいけない。)

彼女から頂いたお土産のロクシタンのシアバター。お祀りしてからありがたく使わせていただきます。
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ところで、昨日はもうひとつ頂きものがありました。
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200ユーロ札というものを初めて手に取りました。普段流通していないので私が珍しそうに眺めていたら、「記念として使うんです。祖母からいただいたものなのだけど、今がこれを使うときだと思ったから」と。ロルフィングを始めて以来、いろいろなものが噴出して自他共々大変だというCさん。これは私の歴史との決別です、とおっしゃっていました。このまま銀行に持って行くのはなにか味気ない気がして、私もなにか特別な時の為にとっておこうかな。
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2015. 01. 31  
以前ここでご紹介したBさんですが、その後MRIの検査結果で頸椎6番と7番の間にヘルニアが発見され、画像をみたドクターがこれはひどいと診断(ゆえに彼女はどん底)、次のEMG(筋電計)の検査結果では異常なしと出て、神経学者は保存療法を勧めました。翌日の神経外科の診断では、ヘルニアは自然に消えるのを待つしかなく、治療で動かすことは出来ない、麻痺をおこしているのは頸椎7番神経であり、彼ができる処置は(麻酔注射による)ペインリリースのみだ、ということでした。

ドクター全員がそれぞれが違う見立てをして混乱している上に、ヘルニアと聞いても頸椎6番突出と聞いても「ああ、そう、良かったわね」と続ける私にBさんは、ロルフィングはヘルニアなど何でもないという態度だけど、医師によって必要だと言われる手術でさえも余分だと言うの、と噴出しました。

私は、ドクターにチャレンジするつもりは全くない、手術を決定するのは医師でもロルファーでもなくあなたよ、と答えました。

ヘルニアと聞いたとたんに死刑宣告と受け止める人は本当に多いのです。大げさに聞こえますが、神経性の痛みや痺れのある人が最も怖れる言葉がヘルニアではないでしょうか。クッションの役割をしていたディスクは摩耗したらもう再生しないから、あとはこの悲鳴をあげている神経は刻一刻とクッションを失い、今後一生涯この拷問がつづく、と。

ディスクは確かに再生しません。膝の靭帯や半月板も、一度壊したら再生しません。だからディスクや靭帯の損傷=手術、というのが今までの当たり前の治療でした。でも、こういう手術の術後がどのようであるかは知られる通りです。また、根本治療に踏み込まず対処治療をした結果、そのときは痛みがとれたとしても何年かたってまた痛みだしたり、あるいは手術後別の部位がダメージをうけるということも今ではよく知られてきて、最近では保存療法をすすめるドクターも増えてきました。

人間の身体の中は宇宙です。ある部分が機能を失ったとしても、本来は別の働きをする別の部位たちが相談してその機能を引き継ぎ、ホメオスタシスを維持します。私たちは部位単位で動いているのではなくて、システムで機能するからです。失った部分は弱いところ、とは思わなくていい。今後は他の部分からより注目されてよりサポートを受けられる部分、と気持ちを切り替えることも出来る。

同じ理由で、私は部分的な筋トレを勧めません。怪我後や手術後のリハビリではパターンが変化しているので話は違いますが、そうでない場合はいまの弱さを作り上げた自分のパターンを見直すのが先。それを作り上げた今の生活でそのパターンを見直さない限り、さらなる不均衡が加わってシステムをもっと複雑にすることもありうるから。

あれから経過し、今のBさんを苦しめているのは橈骨神経と正中神経の同時麻痺。幸い痛みはありません。

橈骨神経は、手の平を前にしてストップ、というしぐさをするときの動作を司ります。正中神経はこれが麻痺するといわゆる手根管症候群ですが、手を内側に巻き込むしぐさをするときの動作を司ります。つまり、この2つはアンタゴニスト(拮抗関係にある)。ある大事なものに対し、それをノーと押しのけようとする力、それをぎゅっとつかみとろうとする力がせめぎあって、どうにもならなくなってしまったら。
そこでフリーズ、シャットダウン。

橈骨神経麻痺と正中神経麻痺が同時に起こるというのは、そういう心理状況が絡んでいるともいえるわけです。


イギリスのある作家が「人間はどうしても理由を求めるのだ」と言っていましたが、これは私たちの深い業だと感じます。ここには2つの落とし穴が合って、一つがwhyによる堂々巡り、もう一つが理由を自分以外の外側に求めること。

whyにこだわって見えてくるのは、過去の経験を元にして創り上げる予測です。それは「私の経験により、私が納得できる」という理由で選んだストーリーなので、事実とは違います。

さらに理由は自分のなかにあるのだけれど、それはもっとも向き合いたくない、蓋をしたまま通り過ぎたい部分なので、見えない、見えない、と「我を忘れて」外に探し求めに行きます。着ているパジャマを探しまわってるようなもの。

症状には理由がある。これは事実です。でも私たちはwhyで自分のストーリーに逃げ込むことに慣れていて、中庸で自分を見つめたり、うららかにhowに向かう意識にはなかなか行けない。

いま起こっていることはすべて、いままでのループから抜け出し、こういう気づきを導きだす為に頂いていることです。


2015. 01. 27  
「ヨーロッパに住む私たちの話す言葉は元が同じ(インドヨーロッパ語族)なのだから数カ国語以上しゃべれて当然、日本語て難しそう、私はとても無理」と慰めてくれるドイツ人に対し、日本語はオリジンが定かでなくて成り立ちがユニークだから他言語を学ぶのが大変なの、と自分の怠慢さを棚に上げ図々しく言い訳を続ける私ですが、一方、仲間であるばっかりに多少は解り合ってしまう(特にドイツ語とオランダ語はよく似ている)英語、ドイツ語、フランス語を話す人たちには微妙な均衡があります。

ドイツ人は服装や食文化同様、自分の話す言葉がイケてないと自覚している人が多く、そういう人は必ずフランス語を意識していて、粗野に聞こえる巻き舌の代わりに、フランス語のrやhを意識してエレガントに発音しようと試みているのが解り痛々しい。

英語で同じものを指す単語が二つ以上あるのは珍しくないですよね。例えばpigはswineとかporkとも言いますが、swineはドイツ語のSchwein、porkはフランス語のporcから来ています。swineを使うのはyou swine!(このブタやろう)みたいなひどい侮蔑をするときで、porkはご存知豚をエレガントに表現するとき。同じ豚肉でもpig meatというと下品だけどpork meatといえば美味しそうに聞こえる。要するに粗野な印象を与えるのがドイツ語由来でエレガントな印象を与えるのがフランス語由来です。ヨーロッパ語族はざっくり分けるとゲルマン系、ラテン系、ロシア系、の3種類になりますが、その中でゲルマン系(ドイツ語)は粗野な農民、ラテン系(フランス語)は上流階級の使う言語として認知されているので、意識して使い分けるのです。calf(Kalb独)とveal(veau仏)の関係もそう。だからドイツ人は意識してnapkinのかわりにServiette(serviette仏)を使ったりします。

粗野なドイツ語というのは西洋ではよく物笑いの種になっていて、ドイツ語=オオカミの遠吠え、フランス語=天使のささやきとも言われますが、ドイツ語のイケてなさを紹介しているのがこちら↓


だからこんなにイケてなくてガチガチに難しいドイツ語を覚えようと熱が入るわけもなく・・・・。



2015. 01. 27  
毎日の気づきを全部ブログに書けたらすごいなと思うめまぐるしい昨今ですが、時間の制約があるのでできるだけ。

今日アメリカ在住で同じく言葉の壁や自分の立ち位置について日々模索を続ける方から、すばらしいヒントを頂きました。彼女が教えてくれたのが養老孟司の「運のつき」と「考えるヒト」。

私は単行本では「バカの壁」しか読んでいないのですが、この人の本はいずれゆっくりまとめて読もうと思ったまま通り過ぎていました。それが、「運のつき」は私がなんだか一人で格闘しているつもりになっていたことに対する気づきをたくさんくれている本らしいということを教えてもらいました。以下彼女のノートを借ります。

曰く
日本人は読み書きが中心という世界でも例外的な日本語を使っているため、言語教育に関するノウハウは読み書きのノウハウ。おしゃべりのノウハウにはならない。しゃべるのと書くのとは違う。


柳美里が、緊急時に電話がどうしてもできずFAXを半狂乱になって送り続ける描写をしていて印象的だったのを思い出しました。スマホが発達して、目の前にいる人とさえ文字で会話する現代人。なぜ言葉を発するより別の媒体を間に置きたいのか。ここをさぐると現代人の心理構造がわかって面白い。読み書きと話し言葉では脳の情報処理の部位が違うといわれると、現代人は脳のある部分を退化させている、あるいは退化させられていると捉えることもできる。

日本語は読み書きが中心だった、というのは現代人が坪内逍遥→二葉亭四迷の言文一致運動以降の流れの中にいるから、昔の思考にまだ囚われてると言ってるのでしょうか??よくわからない。

・英語と日本語の壁
日本語で書くのと英語で書くのとでは、基本的に違う。
千年以上、抽象思考は仏教漬けできたのだから、日本語を使ってものを考えたら「仏教寄り」になるのは当然。


日本語で書くのと英語で書くのとでは違うと私も思います。日本人の書く英語で、日本語で思考してそれを英語に訳したんだなという文章はまったく意味が通らない。英語で書くときには本当に完全に英語モードに切り替える必要がある。そして、英語モードに切り替えると実は英語で書くのはそんなに難しくない。

日本語を使ってものを考えたら「仏教寄り」になるってすごく面白い。
仏教が輸入される以前の日本語にむしろすごく興味があるのですが、古代の日本語はどんな音で、どんな「思考」があったのだろう。もしかして古代日本語は神との会話に使われていて、邪魔な思考がなかったのかもしれない。


・「変わらない私」と「変わる私」
キリスト教の世界では霊魂は不滅、だから「変わらない私」が存在できる。日本人は「諸行無常」と「無我」。私は毎日変わるんだからそんなの定義するのはめんどくさい。「無我」=「変わる私」。国際世論では「日本人は生きていない」そうだけれど、「個人が生きる」ことに対し、「世間で生きる」日本人。


霊魂の不滅=「変わらない私」ではないと思います。そもそも霊魂を「私」ととらえる前提がおかしい。「私」というものを持ち込み、それにしがみつきだしてから世界は変になっている。

個人vs世間ですが、これは日本人vs諸外国人の問題というより、そもそも私たちは世間で生きることを学ぶ為に人間やっていると思っています。ひとと繋がることによって、もともとは私たちは一つだったと再発見するために。

彼女のレヴューだけではたぶん著者の言いたい芯には届いていないだろうから、ぜひ本文を読んでみたいと思いました。
2015. 01. 23  
Etagensyndrom. 直訳すると床症候群。日本語にすると意味不明。ドイツ語にしかないのかもしれない。今日クライアントさんから教えていただいた単語なのですが、あるパーツは緩みすぎていて、あるパーツは硬過ぎる、などと、身体のパーツがまるで一貫性のないバラバラのパーツになっているような症状を指すということです。

ドイツ語はある意味中国語と似ていて、ベタな単語を結びつけてよく長々とした名詞を作ります。この症状を「床症候群」などと命名するその感性に拍手ですが、よくないのはその命名によって満足して、その先の面倒を見てくれないところ。ドクターのところには病名をつけてもらいに行くのであって、治してもらいに行くところではない、と宣うドイツ人は多いです。

数十年に渡る痛みと闘いながら、その数十年で集めたのがありとあらゆる診断結果だったというその方は、私のところにいらした時には数センチに渡る診断書を持参してらっしゃいました。もうハードカバーにできそうな立派なものでした。全方位の立ち姿の体重分布、歩いた時の体重移動の分布が一目で分かるように何ページにも渡って詳細に書かれていて、私もコピーを頂きましたが、その詳細さに感心しました。その冊子を作ったのはある権威のドクターだったのですが、彼女曰く、彼の仕事はそれを作ることで、それをどう利用するかはわかっていなかったそう・・。

こういう冊子を見せていただくたびに思うのは、これらはロルファーならセッションを始めて1分以内に得る情報だな、ということです。ロルフィングで最初に行うボディリーディングというものは、セッションを始める前に、その回のテーマにあたる部分のアセスメントをするため、全方向で立つ、歩く、その他特定の動きをしていただいて、必要なポイントをチェックするというものです。このドクターがたぶん高価な測定機器と時間をかけて作り上げるこの診断書にあたることは、立って動いていただければすぐわかること。

私が最初ロルフィングトレーニングでいちばん焦ったのは、このボディリーディングでした。ちっとも、さっぱり、これっぽちも、わからない。たとえばドイツでは3本の指に入る有名なロルファーのDr. Peter Schwindなどは、初見のクライアントさんを横からみたら一秒以内に、既往症を見事に言い当ててしまう。しかも年代付きで。当てられたクライアントさんは呆然とする。筋膜に触れるそのタッチはもう1グラムくらいに思えるけれど、その1グラムタッチで他とのつながりをこれも一秒で知る。もう芸当、マジック、としか思えなくて、こういう歩くレントゲンがずらっと並ぶベテランロルファーたちにあてられて、トレーニング当初はただ呆然としていました。

これがもう一重に経験によるものだということが、最初は半泣きでうなされていた私がいつのまにかそれらしいことをするようになって、本当だったとわかりました。どんなに慰められても最初は無理無理、私には無理、などと言って枕を濡らしていたのですが。見せられた立派な冊子に、こんなものなくても見れば一目瞭然じゃないなどと生意気なことを感じるようになるなんて。

さてこのEtagensyndromですが、これもロルファー目線で言えば、ほぼだれでも持っている当たり前の症状だと思えます。ドクターによっては、たとえば腰椎の問題は頸椎の問題とは全く関係ない、などと言い放ってしまうのですが、一つの箇所が機能停止していたら、別の箇所がその機能を肩代わりしなければいけないわけで、我々誰もがそういう不均衡を持っている。ある場所が緩すぎたら、それを保護する為に別の場所はカチカチになります。

私たちがもれなく持っている二面性は、矛盾ではなくてそれがバランスなのです。

要するにもう全くカチカチで動かないところ、そこは放っておいてといいたいブラックボックスと、どうにかして助けて、と泣いてすがりたい場所は、たいてい一対だと思っていいかもしれません。

もちろん、この不均衡が極端に出たEtagensyndromなどには、身体のつながりをパーツや直線で捉えずに,他の部分とのつながり、内臓による制限も考慮に入れた内側からの広がりを利用して解決していこうとするロルフィングは理想的な手当のひとつといえると思います。

2015. 01. 20  
今日奥さんがブラジリアンのクライアントさんと話していて、「僕はよく信仰について本を読んだり人に聞くんだけど、日本ではどんな宗教を信じているの?」と聞かれました。

よく聞かれる質問です。(膨大な数にのぼる隠れ○○入信者はひとまず除外し)やっぱり表向き仏教徒が多いけれど、概して極めてフュージョンでハイブリッドで、はっきりいって宗教にいい加減な日本。でもこれは信仰心がないということではないと思っていて、私はいつも「宗教のセクト色は弱いけれど、信仰心は強い。私たちには神道があるから」と答えます。

私たちにとっての神は自然で、どこにでもあるもの。太陽や大木や滝や岩を祀ってそこに神を見る私たち。
「それは、自然を自分とは違う畏れ多い存在として見ているの?それとも、自分もその自然の一部として見ているの?」
「自然を自分の一部として見ています。」
「輪廻転生は?」
「信じています。自分自身を、常に移り変わり生まれ変わる自然そのものだと思ってる。」

偉大なる存在が、自分とは別に存在する訳ではない、それは自分の一部だ、ときっぱり言い切ってしまう私に、敬虔なクリスチャンは大抵これ以上のことを質問してきません。これ以上の話はセッション中にちょこちょこ話すにしてはあまりにもデリケートな話題。

信仰って、悪くいえば思い込みです。呪縛です。戒律などは思いきりコントロール。でも、そうでありながら、私たちは信仰なしには生きられない。その信仰は、私たちがいちばん求める、幸せのあり方を示してくれるから。

幸せってなんだろう。

たとえば自分の幸せをイメージするとします。
お正月に神社で頂くお札の「無病息災、商売繁盛、家庭円満、子孫繁栄」というのが日本人の幸せのステレオタイプだとすると、これを解体して見えてくるのは

幸せというのは、健康で災害に合うことはなく、確固たる社会的地位があって、充分な資産とキャッシュフローがあって、(できれば魅力的な)妻か夫か恋人から充分に愛を注がれていて、子どもたちも同じく健康で優秀で前途有望、という状態を指す、という思い込みです。

逆にいうと、
病気
災害
貧乏
家族の諍い
問題をかかえた子供

これは幸せになるためには、あってはならないもの、ということになります。こういうものを人生から排除しないといけない。こういう思い込みこそが不幸の元になっていたりするのですが。

病気も災害も貧乏も家族の諍いも問題を抱えた子供も、これらがあってはいけないという思い込みがなければ、問題にはならない。つまり、あるに任せ、起こるに任せていれば、それはただ事実としてあるだけで、不幸の元にはならないのです。

たとえば病気は、自分がそれを悪いものだと思うから排除しようとして辛くなる。こんな大事な時なのに自己管理が出来ていない、人に迷惑かけてしまう、こんなことにならなければ・・などと、ただの事実が無意識の期待と思い込みでいつのまにか雪だるま式にいつもの不幸に変わって行く。「いつもの病気です、いつ治るかわかりません、治らないかもしれません、こんな感じであとよろしく〜」みたいにもできるのだけど。

私たちは、幸せも不幸も、自分のなかで創り上げています。そのベースにあるのは、無意識の思い込み。

事実は事実としてただあるだけなのに、私たちは目の前にある事実を解釈するキャスターになる時点で、自分のニュースに作り替えます。私たちは見事にそれぞれが別の世界を生きている。

一昨年の年末に行った常夏のプーケットで、彼らのレイジーさを見てたらなんだかせかせか動くことがばからしくなった、と彼に言ったところ、それはブラジルと通じる、でもそれ、レイジーというんじゃなくて、プライオリティの違いなんだと思う、とのことでした。

時間を守り、いかに能率良く動き、仕事量を増やし、社会の効率をあげ、より「機能する」システムを作り上げるかが我々のやるべきことで、それがあるべき社会。それに沿わない国はレイジー、というのが私の思い込みでした。その場その場の風や太陽を感じることの方に人生の喜びを感じる人たちは、怠慢なのじゃなくて、システマティックに機能する社会にそれを超える価値を見いだしていないだけ。彼によると、ブラジリアンは今持っていないものを得ること、より多く所有することに躍起になる代わりに、今持っているものを楽しむことを選ぶ人たちだそうです。

私の尊敬するロルファーでありSomatic Experiencingの師でもあるブラジリアンのペドロとパオラのことを思い出していました。彼らもそう。アカデミックなバックグラウンドを持っていても、もう全然頭の世界の人じゃない。なにか、とにかく根本的なところに満ち足りた温かさがある。ハートで生きている。あの原色カラーの国の人たちにこれほどに憧れるのはやっぱり、彼らが、人生を楽しむということを知っているからなんだと思う。

貧しく犯罪の多い国ブラジルの人たちが、ほとんどなにも所有していないのにどこか突き抜けて明るく満ち足りている一方、世界中の富を一身に集めてまだ満足できない一部の人たちがいる。(いつか世界中の富の44パーセントを世界の1パーセントの人が所有していると発表されましたが、この所有率は現在48パーセント、じき50パーセントになると試算されています。)金曜日の夕方4時をすぎると帰宅ラッシュするドイツ人と、殺人的な満員列車で会社に行って、昼食も歩きながら終えたりして、一日16時間くらい仕事モードで過ごす人がざらの日本の都会人。日本人として幸せに生きるってどういうことだろう。今年初めての新月の今日、こんなことに思いを馳せてもいいかもしれません。




2015. 01. 20  
何故いきなり肉の話題か。人生予期しない展開になるものです。
今日クライアントさんからJamon Serrano Iberico Bellotoというものをお土産に頂きました。
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↑娘が2切れほどつまみ食いした後に撮った写真。(娘:美味しい!臭みがない!!)しかし食べ物の写真撮るのって本当に難しいのですね!生ハムだから当然だけど、生々しい・・・。

Ibericoには
--Cebo
--Recebo
--Belloto
というランクがあって、これはBellotoだからね!!と何度も念押しされたのでちゃんと書きとめておいて、あとで調べてみたら、これはハモンイベリコ・デ・ベジョータと呼ばれるもので、イベリコ豚の最高級の生ハムのことだったとわかりました。これの美味しい頂き方は、
常温
切りたて
できるだけ薄く切ること(薄切りの専門家がいるそう)

どんぐり100パーセントで一夏中にうんと太ることができた極めて体格のいいイベリコ豚の生ハムはとろけるような柔らかさ。脂肪の部分は、本当に溶けてしまう。そしてなにより驚いたのがその香り。肉というよりナッツを食べているようなほのかな香ばしい香りがするのです。驚きました。ひからびていて硬い、しょっぱい、というイメージだった生ハム。同じ食べ物ではない。。

色々説明してもらったことが全部このサイトに書いてある!

この生ハムは彼の職場近くのSchillerstraßeで毎週火曜日と金曜日にたつ市場に来るハム専門の屋台Shinken Beckerで買えるそうです。このハム屋さんはスペイン、イタリアなどから輸入した選りすぐりのハム(日本だと一本18万円・・)をトラックの天井からいくつもぶら下げていて、その場でひょいひょいと切って売って量り売りしてくれます。べつにここに限らず、Klein Markthalleなどでもこの手のお店はたくさんみかけます。こんな高いものよう買う人いないでしょ、といったら、そこがリッチな証券マンの多い通りだからかかもしれませんが、ひっきりなしに売れていくそうです。ドイツも大型スーパーが席巻していますが、美味しいものをちょっとだけいただく市場文化はなくならないだろうなと思います。

”ドイツ人は肉とジャガイモしか食べない貧しい食文化の連中”という先入観を持つ人は多いのですが、いや半分は当たっているのですが、これがものすごく奥が深いとわかったのは、実は最近です。大抵のドイツ人は、自分のひいきにする食材に対しては、もうこだわりの限りを尽くす。

肉好きのドイツ人が肉を選ぶときの目はハンターそのもので、牧場の牛と目が合ったときにうまそうだ、などととっさにつぶやくことは私には出来ないのですが、池で憩うカモを見たって、これから焼かれる運命の血の滴った串刺しの豚を見たって、変わらず食欲が湧く彼らには畏敬の念さえ湧きます。

肉には引きっぱなしですが、野菜奉行の私は野菜になら同じ事出来ます。市場に出入りするようになって、リンゴにこれだけのアイデンティティーがあって、それぞれが確固たるファンを獲得していることもわかったし、ジャガイモは普通に3種類以上はあって、どんな料理をしたいかによって買い分けるということも知りました。ある人が絶対にいつも同じ人から野菜を買うし、ある人が絶対にいつも同じ人から肉を買うということも解りました。店によって味が全然違うのです。私もあるおやじから買った野菜のあまりの衝撃に、それからというもの30分待ってでもその人から買うようになりました。

大きなカテゴリーでいうと、ドイツの食文化は本当に質素で、種類が少ないのだけれど、サブカテゴリーにはバラエティがかなりあるのです。細部にこだわるドイツ人らしい。

話が逸れましたが、わざわざ買っていただいたこのありがたい超こだわりイベリコ豚の生ハム。一気に2枚をおやつに食べて水で流し込んでしまった娘の悪行には目を瞑ることにして、あしたから1週間はボール一杯のサラダにこのハム2枚が主菜♫
2015. 01. 19  
リニューアルしたHP完成!新しいHPはこちらです。よろしければご感想を頂けると嬉しいです。マルチリンガルにするつもりだったのですが、それでドイツ語しか話さない方が来てしまったら困るなどという身も蓋もない内部事情があり、ドイツ語は後回し、日本語はクリックするとこちらに戻ってくるなどということにしてしまいました。

試しに娘に見せたら、顔色一つ変えず「相変わらず長い」とだけのコメントでした。

SEO対策こそが大事だとはさんざん言われているのですが、もう力つきた。中身は書けるけれど、その後ができない。だれか歓んでこれを手伝ってくださる方いらっしゃいませんか?・・・あしたからはもう本当にホメオパシーの勉強に戻りたい。

今年こそ、本当はロルフィングよりも先に始めていたホメオパシーのコースを終わらせ、ホメオパスになるつもりです。もういいかげんにしたい。3年以内で終えるつもりだったのが、思いがけない人生の展開で6年もかかってしまっている。今年からはライフワークにぐっと踏み込む勝負にかけます。まもなくの新月にしたいお願い事が今回はたくさん。




2015. 01. 17  
休暇明けに耐えられない腕の痛みと親指の痺れを訴えロルフィングに駆け込んで来られたBさんのことを、ご本人の了承を得てシェアします。残念ながらそのときの私の処置とホメオパシーで痛みが即座に引いてくれなかったので翌日ドクターを訪ねたら、手根管症候群かビタミンB12欠乏症か橈骨神経が死にかけてるかどれかだと言われ、ある強い痛み止めの注射をされました。この痛み止めは、流通する中で最強の痛み止めでした。それでも痛みは引かず、翌日もう一度その注射を受けたら、痛みは消えました。

それから数日後、手がとんでもない腫れ方をして、ここに来てドクターは一言も言わなかった痛み止めの薬の副作用が明らかになりました。吐き気、発汗、集中力の欠如、心拍数の低下、頭痛、精神異常、そして異常事態を知るに至ったエレファントアーム。そのときテンポラルに橈骨神経を保護するためにガッチリとテーピングをしていたのですが、プロ(トレーナー)の仕事によるテーピングで、こんな腫れ方になることは通常ありません。

実は本人の判断で摂っていた睡眠導入剤と、よかれと思って同時に摂った同等の作用をもたらすハーブは一緒に取ってはいけないものだったということも後で解りました。その睡眠導入剤はヨーロッパでは危険だとして禁止されているものなのですが、簡単にネットで手に入れられるのです。ハーブは自然のものだから安心と思われがちですが、医薬品と併行して摂る場合には絶対に注意が必要です。

色々なことが重なって大慌てしましたが大事には至らず、間もなく一連の症状は治まり、2週間たった今は親指の痺れだけが気になる、ということで改めてロルフィングに見えました。

ロルフィング10シリーズを終え、定期的にメンテに来てらっしゃる彼女のこの痛みが、構造的なものでないことは明らかでした。手根管症候群やビタミンB12欠乏症はあり得ますが、手根管症候群に結びつく手の動きをしていないしそういう構造要因もなく、ビタミンB12はストレスで大量に消費される。橈骨神経が死にかけてたらこんなに自由自在に動かせない。単純に思いつくのはストレスで頸椎6番が狭窄したかずれたかで橈骨神経を刺激しているのですが、なぜそれが急に起こったか。頸椎6番は呼吸に深く関係しているので、胸がつぶれるような思いをなさったんだろうなと思ってはいましたが、ストーリーに踏み込まないのがロルフィングのいいところ。

今はすっかり良くなったのですがもともと腰椎4番にドクターたちからこぞって再起不能と言われていた弱点があったのでチェックしたところ、そこが大丈夫で代わりに腰椎3番が不安定。腰椎3番というのはおへそのちょうど裏側にあたる部分で、一般にずれやすい4番に較べて比較的安定しているので、ここだけ不安定になるのは珍しい。

おへそってご存知身体の中心です。一般に腰痛というのは、はしごを上って途中でそれを外されたような精神状態を現します。メッセージは「私には支えがない」。人生のもっとも中心に位置するものを失う経験をされたのかもしれない。

本人気づかなかったけれど案の定腰椎が腕と同じブラックボックス。腰椎をひとつひとつ、足からのつながりで確かめて行く練習をしました。とにかく腰椎がちゃんと骨盤に支えられ、骨盤が足で支えられている、とつかめるまで。そこまでやってやっと問題の頸椎。背骨の存在をひとつひとつ確かめる作業に終始してのセッションでした。腕には結局最後まで一切触らないままでした。でもその後、無感覚だった前腕がちりちりしてきたとのことでした。


何度も繰り返すのですが、急性の症状というのは、生命力が上がったときにしか起こりません。生命力が上がって、いまならずっと抱えているもっと慢性の問題に向き合うことが出来る、と身体が決意をしたときに、生か死の一大決心を持って臨むのです。彼女はドクターに見放された以前の症状がすべて改善されて、いままで出来なかったことが出来るようになって自信がつき、本当に別人のように強くなったら、たくさん欲が出てきました。そして、もっとも辛いことに向き合う準備ができたであろう今、これが起こりました。

神経性の痛みというのはもう本当に、正気を失うような苦悩をもたらします。痛みはもちろん神経が引き起こしているのですが、この神経がトリッキーなのです。なにが神経を刺激するのか。私たちの身体には縦横無尽に神経が張り巡らせているから、言って見れば常に神経は隣り合う組織から圧迫されている。それが耐えられない不快症状に変わるスイッチは、実はまだはっきりと解明されていない。

ひとつは、痛みは記憶なのです。痛みは筋膜に記憶されるという記事を最近読んで、筋膜リリースがなぜ痛みを取るかの説明になるなと思っていたのですが、要するに神経を問題箇所から引き剥がしても、構造を良くしても、痛みが即座になくなる訳ではない。痛みは記憶を引きずっていて、痛みを引き起こしていた構造的要因が解決されてもなお、痛みだけが残るということがよくあります。

これもいつも言う例ですが、どんな検査をしても「どこも悪くない」と言われても耐えきれない腰痛によりありとあらゆる痛み止めを試し最後に車いすとモルヒネの生活に陥っていたある老婦人が、ある日モルヒネの適量を誤って昏睡状態になり、目を覚ましたときに記憶喪失になったら痛みも消えていた、という有名な話があります。痛みは記憶である、ということを利用したのが、電気ショックで一種の記憶喪失を創り上げる治療です。

筋骨格系、臓器、血液、どんな検査をしても「どこも悪くない」と言われ、原因のわからない痛み。ここまで来ると大抵は匙を投げられ、向精神薬が処方されます。ここからは本当の苦難の始まりです。自分の身体がどんどん自分のものではなくなって行き、魂はうつろになり、そして私と離れたからだは薬に依存を始める。痛みを感じられるからだのほうが良かった、などとは思えないけれど、痛みと引き換えに失うものが魂だったら。

痛みは記憶。大抵、もっとも「痛い」記憶。全身全霊で泣き叫び続けている私がそこにいる、ということ。

セッションの後に、たぶん最初は受け入れられなかったと思うのだけど、と、私の感じていたことを話しました。その通りだったということでした。





2015. 01. 11  
昨晩、クライアントさんのお誕生会兼新居お披露目会に行ってきました。彼女の人生にとって重要な人だけに集まってもらう、会わせたい人がいるから絶対来て、とかなり前から言われていました。このためにケンブリッジからかけつけたという恩師の教授はじめ、先生やごく親しい人だけが少数集まったアットホームな会にはラテン語をしゃべる人が何人もいて、彼女が博士論文をラテン語で書いていたとここで知りました。彼女アラビア語が堪能なだけじゃなくてラテン語も堪能だったのか。そういう方々に「これが有名な孝美」と紹介していただいて光栄でした。彼女はロルフィングを自動車工場のようなものと紹介しているそうです。内部のボルト一つの不具合をささっと見つけて治してくれるところだと。ここで紹介するロルフィングとだいぶ印象が違いますが、もう3年以上のつきあいになる彼女がそういう印象をもつなら、これが彼女にとってのロルフィング。

昨日の会はいろいろな意味で面白かったです。本当は普段絶対に拝めないような珍しい面々にラテン語で会話してもらいたかったし専門家達にたくさんインタビューしたかったのですが思いはかなわず、ある方が資格社会ドイツでどう自活して行くかの内部情報を滔々と説明してくださって会は更けて行きました。ちょうどタイムリーな関心だったので、ま、いいか。

たとえば需要や関心はすごく多いのに資格としてきちんと確立していないから困る分野ってありますよね。代替医療と言われる分野もそうだし、スポーツ分野もそうです。

たとえばスポーツ方面で身を立てたいと思ったら。超有名な選手になれれば話は別ですが、日本だとスポーツ方面で身を立てるのは厳しいという一般認識があるので、早々にスポーツをとるか学業をとるかの選択を迫られる。スポーツ万能で頭もいい、という人気者はせいぜい小学生で消滅してしまいます。スポーツ関係にすすむなら学業はいらない、スポーツ選手はオツムが弱いみたいなことになってしまうのは本当に残念なシステムです。スポーツができる人は他の分野も同時にかなり発達しているのが本来で、スポーツでは身を立てられないといういう理由でしぶしぶ既存のルートに収まっていく人が多いのは残念です。

たとえばアスレチックトレーナーという資格は日本ではメジャーではありません。アメリカでは身体能力も頭脳も認める資格として確固とした地位を確立していて、アスレチックトレーナーがロルファーを兼ねることも多く、今ではアメリカの大学でその資格をとって実績をつくってから日本に帰国し活躍する人も増えてきました。以前こちらでご紹介した佐藤耕祐さんもその一人で、彼は最近めでたくロルファーとなり六本木でセッションを始められたそうです。(いま特別価格でモニター募集中だそうなので予約お早めに!締め切っていたらすみません。)

ドイツでもパーソナルトレーナーやコーチングはれっきとした資格で、かなり頭脳が求められます。責任が重いし、医学知識はじめ多方面の知識が求められるから。たとえばヘッセン州で水泳のコーチになりたかったら、まず大学でスポーツ理論や医学、マッサージ、アナトミー、理学療法などを学んだ後に1年かけて実践的なものを学ぶディプロマコースにすすみます。(これは学士と修士の中間のようなもの。)ディプロマをとったあと初めて自分の専門にしたい分野での専門教育を受けて、やっと一人前の肩書き。でもこれでも独立開業はできなくて、チームに雇われるかアプトやDrなど、さらに上の資格を持ち独立開業できる人の下につく。もっともディプロマというのは最近できた資格で、以前何十年もドイツブンデスリーガで選手を支えた有名な理学療法士の頃にはありませんでした。時とともに、資格が増えたり統合されたりします。

ドイツでは独立自営としてみとめられる資格は難関で、他の国では認められる資格が認められないことがあります。たとえばホメオパシー、オステオパシーなどは単独では開業出来ず、これで開業したかったら国家資格であるメディカルドクター(MD)かハイルプラクティカーの資格を取らないといけません。MDよりははるかに簡単にプラクシスを開業できるハイルプラクティカーは人気ですが、以前と違っていまはものすごい難関になってしまいました。

もっともMDよりさらに難しい資格がなんとアポテケのチーフだそうです。ドイツのMDの優秀さについては世界中に異議申し立てをするひとはいないでしょうが、それを超える超難関をくぐりぬけたのがアポテケの奥に座ってるあの人たちだったなんて。どおりで以前から厄介なことを聞くたびに奥から引き出されてくる人は何でも知ってると思っていた。以前ここでもご紹介したapotheke am holzwegの店員さんはどの方も生き字引のようで、症状をパパッというとささっとナチュラル系の処方をしてくれるので、はっきりいってドクターにかかる必要ないと思ってました。後で知りましたが、ここは街一番と評判アポテケだそうです。ちなみにそれだけの超難関をくぐり抜けたアポテケのチーフですが、お給料はそれほど高くはない。難関資格で有名な医者弁護士といえば所得でもトップですが、おなじ医療業界でもアポテケ関係やハイルプラクティカーなどは高収入には必ずしも結びつきません。ちなみにPhDを持っているからといって高所得者になるとも限らない。資格≠収入。

資格≠収入とおなじ矛盾がもうひとつあって、それが資格≠実績。MDの中には代替療法を鼻で笑う人もいる一方、専門課程で自然療法を選ぶMDや、コンベンショナルな治療がどうも望む結果に結びつかないと後で自然系や代替療法に鞍替えするMDもいます。日本のように政治により熱心なドクターよりも本業により熱心な誠意のあるドクターが多いのは本当にありがたい。

ここまできて、ではこういった肩書きの全然ない私がどうやってやっていっているかという本質的な問題に踏み込みます。こういう誠意のあるドクターや、自然系の治療を望む一般市民が多いことで、ドイツはいわゆる無資格のセラピストが生きて行ける国でもあります。保険のきかないこういった治療に対してかなり開かれているのです。加えてドイツ人は実は東洋人に対してかなりの信頼を持っている。中医学に絶対的信頼を持っていて鍼治療をする施術者は多いし、経絡のことも詳しい人が多い。中国人の鍼治療などにはMDが通いつめるし、タイマッサージ、瞑想、ヨガ、気功、合気道をはじめ武道などもすごく人気です。ロルフィングもまさにそこに位置します。

実力を正当に評価してもらえる開かれた土壌でセラピストとして真剣勝負したい、という方には、ドイツはお勧めの地かもしれません。
2015. 01. 04  
ブームが去った頃に一人夢中になったハリポタ、むしろもう雑音がないから心置きなく一人で妄想の世界にとっぷり浸れてむしろ良かったかもしれません。

はたと気づいたのですが、私の好きな作品や役者は、主要な賞がとれない。

ハリポタシリーズはアカデミー賞を1度もとれなかったどころか主要部門にノミネートさえされなかった、主演のダニエルラドクリフはシリーズに渡って一度も賞も取らなかったと知って、心底驚きました。最終章はあらゆる意味に置いて名作だったのに。この作品は実際は世界中で愛され、これからも歴史に残るだろうからオスカーがなんだ、とも思いはしますが、なにか価値を否定されたみたい。

過去のアカデミー賞受賞作品はうなるような名作が多いですが、最近の受賞作は今ひとつ魅力を感じなくて観る気がしないと思っていたところ、ハリポタ最終章も受賞を逃したと知って、ますますアカデミー賞に対する信頼が薄れました。最近は、いままでとても信頼していた「権威」に違和感を感じて静かに離れる、ということを繰り返してきましたが、かなり淋しい。

確かにダニエルラドクリフはハリー以外の何者でもないという気がしてしまって、演技力を試される他の作品は厳しいかもと思えてしまう。同じく演技が評価されないペヨンジュンはわざとらしいしレオナルドディカプリオは力入りすぎてる。おなじく賞を逃し続ける村上春樹は倫理観に欠けてる。でも彼ら、これだけ人々を夢中にさせる魅力がある。この絶対的な魅力をどうしてもっと掘り下げて評価してあげないんだろう??賞を与える側って、理屈抜きに魅力のあるものが嫌いなのかと思ってしまう。

賞を貰いやすい、評価を得やすい、というのが「理屈抜き」という部分を無視しているのだとしたら、彼らが頼っているのは一定の条件や価値観に支えられたステレオタイプのはずで、それこそが私たちの不幸の元凶。「あるべき姿」に沿わないのなら認めてあげない、と「条件付きの愛」をつきつけられて、人はどれだけそれで苦しむか。ありのままの私は愛されない、受け入れられない=私じゃないものに変われるなら、愛される。何故価値観に沿うように変わらなきゃいけないの。なぜこのままじゃ愛されないの。条件付きの愛に踏みにじられた本来の私は鬱へ向かう。

鬱、そしてシャットダウン。そしてその先にあるのは死です。

いまの世の中をひっぱっているのは、目に見えない、理屈を超えた、という、もっともコアなところをぎゅうぎゅうねじ込めて、単純に図式化できる安易なステレオタイプ。私たちの一人一人が本来もつ創造力を封じ込めて、本来それぞれうんと自由に飛び跳ねていた私を抑圧しコントロールし、死へ向かわせる。

申し訳ないですが私ディズニーをどうしても好きになれないのです。あれはファンタジーでなくてファシズム。ステレオタイプのおしつけ。童話の白雪姫にあのディズニーのキャラクターのイメージをべったり貼付けてしまって子どもたちから創造力を奪ってしまった。

私いまでも覚えているのです。字が読めるようになる前から本屋にぺったり座り込んで活字を追っていた子供だったらしい私は、そのとき行間に広がっているであろう世界を夢中で夢想していて、だからほんのちょっとした挿絵がどれだけ強烈な印象を脳に残すかを。映像による刺激は最小限がいい。ベッドタイムストーリーの挿絵はその後繰り返しみる悪夢につながったりする。本来、子供には刺激はそれくらい影響力があるのです。音と色でじゃんじゃか刺激を与え続ける今の文化が、もうやめて、と耳を塞ぎたくなる正常な防衛反応を麻痺に変えている。私の白雪姫はディズニーキャラクターにいつのまにか置き換えられていて、もう思い出せない。

ディズニーをはじめとするキャラクターの登場で、子どもたちは創造をするスペースを奪われ、代わりにステレオタイプがべったり貼付けられました。音楽だけ流せば自然に歌をうたい身体を動かせる人がどれだけいるでしょう?決まった振り付けと決まった歌詞がないと棒立ちになってしまう私たち。本能が奪われてる。

ハリポタは映像から入った人も多いでしょうが、それでも、私たちの中で押し込められていた創造力を喚起させる強さがある。理不尽な仕打ちに耐える辛い現実世界にある日突然、魔法使いの門番が魔法学校の入学許可証を持って自分の前に現れる。君は特別なんだ、というメッセージとともに。もうこの設定だけでどれだけの人が救われるか。どれだけの人がそこから閉じていた扉を開いて自分のイメージの世界を広げ、創造の世界に入って行けるか。

ハリポタでは、現実から逃れてファンタジーの世界にいるようでいながら、扉の向こうにもまぎれもない現実の生々しさが描かれている。パワーゲーム、差別、嫉妬、いじめ、愛、死。現実と創造の世界は交差し、交互に関係し合って、変わり続ける。登場人物達は時間の経過とともに別の人物のように変わって行く。私たちは変わり続ける有機体なのだから終始一貫している方がむしろ不自然でおかしい。

最終回にあそこまで持って行く作者は、私の現実は私が創り上げる、ということを自覚していたはずだと感じます。グリム童話が子供向けでないのと同様にこのシリーズも子ども向けだとはとても思えない。児童書のように扱って、余計な解釈で装飾を施してしまった版はどうしても手に取る気がしなくて、できれば最初は本当にシンプルだったらしい原書を手に取って、改めて創造の世界で遊んでみたい。
2015. 01. 01  
何もかも投げ出してハリポタに夢中になったこの休暇中、唯一併行していたことが、Tさんから貸していただいた「アナスタシア」の3巻と4巻を読んだこと。実はハリーポッターってアナスタシアのメッセージをダークサイドから照らしたものという気がして仕方なかった。あまりにも、映画中のセリフやアナスタシアのセリフが同時進行でリンクしてびっくりしていたのです。

ハリポタの世界は、想いの現実化、の壮大な縮図の気がしていました。あのキャラクター達は、生きている。彼らの使う魔法も想いの現実化ですが、作者のローリングが描き出したキャラクター達の人生は、私たちの人生にぴったり寄り添うような現実味がある。そしてその彼らが見せてくれるのが作品中ずっと流れる「死」というテーマ。その鏡になる「生きる」ということ。アナスタシアは「生きる」ことをホワイトな部分にとことんフォーカスすることで教えてくれる。ハリポタは逆にこれでもかと私たちの中に等価にあるダークな部分を強調して死をぐりぐりつきつける。死から逃れようとするんじゃなくて、死を歓んで受け入れることが死を克服することなんだよ、と。これも結局はいかに生きるかということ。

死を受け入れて死を克服したハリーがダンブルドア校長に会い、「これは全部僕の頭の中で起こっていることなんですか?それとも現実ですか?」と聞いたとき、「もちろん君の頭の中で起こってることだよ。でもそれが現実じゃないということにはならない。」と返ってきます。私たちの人生って、こういうものかもしれない。

アナスタシアから私が受け取ったメッセージは、創造。
最近とくに怖いくらい身近で「想いは現実」を証明されていて、あとはもう怖がらずスピードに慣れて行けばいいんだと思い始めていたときに、

「初めに、意識があった」
「魂の内で創られるすべてのものは、必ず外側に反映されるの。」


アナスタシアのこの言葉。

意識エネルギーを純粋な意図とともに集中させるとそれは現実になる、などと説明に走るとつまらない世界に戻るけれど、それについて想いを巡らせていたときに、ハリーが映画中で防衛術の魔法を他の生徒に教える場面を観ました。ハリーが強いのは、もうのっぴきならない状況に置かれ意図に雑念がはいる暇もなくて、実践で鍛えてきたから。集中するんだ!といってまわってるハリーには説得力があった。あの様子は、まさにイメージの現実化の練習。ものすごい高度な、意識の加速化の練習。

ローリングは色々なマジックの世界、とくにあえてブラックマジックの魅力や強さをうんと強調しているけれど、でも彼女の意図はそこにはないと感じます。むしろこういったイメージの現実化を通して、私たちのなかに眠っている意識の現実化に興味を持たせてくれた。どうすれば優れた魔法使いになるか、誰が魔法使いとして強いか、これを追求することは、どうやって創造するかの練習。イメージをいかに詳細に、正確に、緻密に、現実化するかの練習。映画ではあまり掘り下げられていなかったから、原作でこのあたりの作者の見解をかいま見るのを楽しみにしています。

アナスタシアのメッセージは、どうやって私たちの地球が出来あがったか、そして私たちがこれからの人生をどうやって創り上げて行くか(どうやって自分の故郷を取り戻すか、という言い方をしています)のキーは、もう私たち一人一人の手にある、ということです。それをものすごく解りやすく、もうどんなわからずやでも解るように渾身懇切丁寧につたえようとしている。聞き手は全く解っていない人代表、アナスタシアの域に達するはもっとも遠くにいる、彼女にもっとも似つかわしくない、と世界中から怒りに満ちた非難を轟々と浴び続けているウラジーミル氏で、私も彼の発言にはついイライラしてしまいますが、彼女が彼を愛して、彼に語っていることこそが大事なんだ、ということをしみじみ感じ始めていました。彼を相手にアナスタシアは全身全霊で愛を送り、光を送りつづける。諦めず、ホワイトな世界を映し続ける。

アナスタシアは感情は意識を加速すると言っていたけれど、とくにハリポタの最終回はもう涙なしでは絶対見れないくらい感情的になりました。私たちはこの地球で、他の生物たちが経験することの出来ない創造性を与えられて、そしてそれを経験しきることのできる感情を与えられている。私たちはもうすべて与えられた。私は全て創り上げることが出来る。ハリポタの壮大な世界がかいまみせてくれるのは、私たちの内にあるダークサイドの創り上げる世界。それにとことん向き合ったときに出会う神との一体感。こんな風に感じて浸っていたのですが、飛躍し過ぎ?

昨日、新年が明けてまもなく、タロットを一枚引いてみたくなりました。いつもメッセージは怖いくらい自分の現実を映し出す。ある時期は、カードが3種類くらいしかないんじゃないかと疑うくらい同じカードしか引かない。私にとってはあまりにもリアルな事実です。そして目にしたのが「I 魔術師」でした。私も娘並みに単純かもしれない。

ところで、日本語に翻訳されたスネイプは、唇をめくれあがらせて自分のことを我が輩と呼ぶって・・・。まるで第二次世界大戦時の列強側が鬼畜日本兵を描写したみたい。心を閉ざし感情を押し殺した、静かな人のはず。本から入った人はスネイプを好きになれたんだろうか・・。



プロフィール

rolfertakami

Author:rolfertakami
鎌田孝美(Takami Kamata)

http://www.takamirolfing.com

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ヨーロッパロルフィング協会に所属する、
ヨーロッパで第2号の日本人ロルファーです。
英国スクールオブホメオパシー
アドバンスプラクティショナーコースに在籍し
現在臨床を行っています。

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内側に深くしまいこんだこだわりを、抱きとめ、見つめ、解放し、
かわりに内側で眠る可能性に光を与える。
身体が目覚め、失ったものを取り戻していく過程を
みなさまと楽しんでいきたいです。

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・ヨーロッパロルフィング協会認定
公式アドバンスロルファー
・同ロルフムーブメントプラクティショナー
・直傳靈氣師範
・全米ヨガアライアンス認定
ヨガインストラクター
・陰ヨガインストラクター
・ソースポイントセラピー認定施術者

・・・・・・・・

<セッションのお申し込み&お問い合わせ>

rolfertakami@gmail.com
+49(0)6171 279 0088

・・・・・・・・・
2017年冬 東京セッション
12月27日(水)〜1月3日(水)


2017年 直傳靈氣講習会(フランクフルト):

前期10月20日(金)14:30〜18:30
  10月21日(土)9:30〜12:30
       14:00〜17:00 
後期10月20日(日)9:30〜16:00
        
      
直傳靈氣交流会(フランクフルト)
10月23日(月)16:00〜18:00

ホメオパシーについて語る会
10月18日(水)14:00-17:00
内容
ホメオパシーとの付き合い方:
ーファーストエイド
ーミニコンサルテーション
Abby Takarabe, Peggy Bideホメオパスを
聖地スワジランド、オーストラリアから
講師にお招きします。

参加費用:
50ユーロ

直傳靈氣交流会(東京)


参加お申し込みを受け付けております。
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Profile:

Takami Kamata

Certified Advanced Rolfer®
Certified Rolf Movement®Practitioner
Jikiden Reiki® Shihan
Registered Yoga Teacher
SourcePoint Therapy® Practitioner

Contact me at:

rolfertakami@gmail.com


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