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2015. 04. 12  
昨晩公演のあと、一緒にいった友人と深夜1時半過ぎまでカフェで話しこんで帰ってきました。カフェでお茶一つで深夜まで楽しく安全に過ごせるっていうのはありがたい国。

彼女から頂いた言葉で忘れてはいけないと強く感じた言葉があったので書き留めておきます。

セラピストは、言葉にはしないモラルの部分が大事。

彼女に言われて、それね・・と重い口を開きました。私たちにはそれぞれ持ち場というものがあって、その持ち場それぞれに、これは前提になるモラルがある。あまりにも当たり前ですが。

セラピストは舞台で言えば間違いなく裏方です。裏方には裏方のモラルがある。彼女曰く、このあたりの自覚はドイツ人の方がしっかりしている、ということです。日本では容易に簡単に誰でもセラピスト、みたいな風潮を昨今感じるのですが、そして実際セラピストは誰でも簡単になれるのですが、これが信頼出来るセラピストとなるとまるで違う話になってきます。このあたりは自分で書いていて耳が痛い。でも、都合が悪いと避けて通れない。

私は施術者として、我の充足のためにやっているのか。私が救われたくてやっているのか。自己実現のためにやっているのか。

大抵セラピストになりたい人は、まず自己の救済が必要でこの世界に入ってきます。人を救うためだけに天界から降りてくる菩薩様のような方はめったにいない。それがいけないわけじゃない、それをちゃんと自覚しているか。

自分がどこまでできてどこからできないかを自覚しているか。

セラピストという持ち場についての自覚です。人をどこまで引き受けるか。どこまで助け、どこまで導けるか。そしてどこで離れるか。その人に対する自分の持ち場についての自覚がモラル。

当たり前のことなのですが、いろいろなワークショップやセミナーを開催している人を見ていると、なにかこの当たりの前提を飛ばして無邪気にやっている人が多い気がしています。どんなにいいテクニックや内容を伝授していても、それはそれで素晴らしいことでそれでいいのですが、でもその人のセラピストとしての持ち場に対する取り組み方の甘さみたいなものが透けて見えてしまうと、なにかその人に対する強い不信が残ってしまうのです。内容だけをありがたく頂いていればいいものを、なんでこんなに後味悪いんだろう、私だけのこだわりか、と思っていたのですが、彼女から言われてつい反応してしまいました。

これは我があってはいけないとか、手助け第一のために自己は脇に追いやる、みたいなルールを自分に課す、というのとは違います。どうもこういう世界は相手をコントロールしたいというパワーゲームに陥ったり、自己犠牲や共依存のパターンを繰り返したり、ということに陥ってややこしくなることも多いので。

セラピストとして、というか人間としてシンプルにいられるために大事なことを教えてもらいました。

自分が「頂いている、生かされている」という実感がもてたらそれがすべて。今、この瞬間、その実感とともにいられたら、すべてが単純で、楽になる。この感謝の気持ちはすぐに忘れてしまうのだけど。

言われてハッとしたのですが、同感です。これだけお導きとしか思えないことばかりで出来上がっている人生を歩んでいながら、言われないとすぐ忘れて、「〜しなきゃ」ともがいてしまうのだけど。自分を見失っている時って、この感謝の気持ちをどこかに忘れています。あとから振り返るとどうでもいいことであがいている。そのときは全然その状態が見えていないので、あらためて第3者からはっと気づかせてもらえるって本当にありがたいと思います。



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2015. 04. 12  
昨晩、一昨日からフランクフルトではじまったフォーサイスカンパニー最後の公演Kammer Kammerを観に行ってきました。15年前の作品で、フランクフルト市立バレエ団時代のプリマとプリンシパルが主役を演じるゲイとレズビアンの交差する人間関係を描いた作品だったそうなのですが、こんなに解りやすいテーマなのに解らなかったの?と後で言われるまで内容が解らなかったという、よくわからない作品でした。

Kammerというのはドイツ語のZimmer(部屋)と英語のCam(カメラ)をかけたもの?のようで、舞台、とくにモニターの仕掛けと芸術性には感動しました。ステージがいくつかの部屋で仕切られ、一番手前で踊ってくれるシーン以外は観客は壁のわずかな隙間かモニターでしか観られない。断絶、同時並行、関係性の平行、こういったモチーフはフォーサイスの作品には決まって出てくるのですが、最後にあらためて初期からこのテーマが前面に押し出されているのが解って、なるほどと原点を見る気がしました。

主役の二人がずっとしゃべり通しなのですが、それが何について言っているのかさっぱり解らない。いや英語がわからないというより、言語がひっかかりを持たず、右から左に抜けて行ってしまうのです。何が言いたいのかがさっぱりわからない。後期の作品だと、照明も音響もうんと減って、セリフももう何語でもない変な声での会話になるのですが、これに繋がっていった理由が解る気もします。きちんとした文章なのに、まったく意味を持たない音の羅列にできるってすごい。

説教などがいい例だと思うのですが、人間てある程度以上の音量と情報量になると防衛機構が働いて聴覚が自動的にシャットダウンし、音は入って来るけれど聴いてない、という状態を作りだせるみたいです。(聴覚過敏症や自閉症はこの機能が停止した状態。)まったく意味不明のモノローグをずーっと聞かされて、なんだか情報を拾おうという回路が断たれてしまう。観客とのコネクションも、舞台でのコネクションも、全部断ったところに現れるのは、ぐるぐる回る脅迫的な一人の思考回路。

これは私の印象なので、他の観客はスタンディングで賞賛をしていたような素晴らしい内容だったのでしょうが、私には、正真正銘わからなかった〜〜〜〜〜。関係性についてあれだけ掘り下げて来た(ように見えた)カンパニーが、最後にたたむ前にこんなにヒステリックな一本調子の作品で終わるのも、常に人の裏をかくことを楽しむかのような彼特有のウィットなのかもしれません。

フォーサイスカンパニー解散後は、トゥシューズを履いて踊るダンサーたちによる、よりダンスを前面に押し出したカンパニーが後を引き継ぎます。プロのダンサーによるダンスパフォーマンスを存分に堪能出来るようになります。フランクフルトの観客にはおそらくそちらの方が受けがいいでしょう。でもこれでもかとアクを見せつけられて来た私などは、このひねった表現に妙に愛着が湧いてしまって、アクのないパフォーマンスにちょっと拍子抜けしてしまうかもしれない。実際へんな作品ばかり踊って来たフォーサイスカンパニーのダンサーたちは、カンパニー解散後、若いダンサーも含めて全員が、新しいカンパニーには残らずフリーになる道を選んだことも、このあたりの事情を物語っています。

この作品は19日まで続きます。一つのパートを複数のダンサーが踊るので、日によってカラーがまるで違うものになるのも面白い。観客席によって、踊るダンサーによって、作品がまるで違うものになるというのは一つの作品を何回かみて知りました。初期の頃の超自我が強い個性的でアクの強いダンサーたちが去って、性格のいいダンサーがそのパートを踊ると、まるでテーマが違うものになってしまうのも面白い。昨日さっぱり解らなかったのも、超個性の強いオリジナルメンバーの不在によるところも大いにあるだろうな、と思いました。私は最終日にもう一度行ってきます。

プロフィール

rolfertakami

Author:rolfertakami
鎌田孝美(Takami Kamata)

http://www.takamirolfing.com

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ヨーロッパロルフィング協会に所属する、
ヨーロッパで第2号の日本人ロルファーです。
ホメオパス(RSHom)でもあります。

ロルフィング
ホメオパシー
SE(トラウマ解放ワーク)
エネルギーワーク
を複合したセッションで皆様のお手伝いをしています。

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内側に深くしまいこんだこだわりを、抱きとめ、見つめ、解放し、
かわりに内側で眠る可能性に光を与える。
身体が目覚め、失ったものを取り戻していく過程を
みなさまと楽しんでいきたいです。

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・ヨーロッパロルフィング協会認定
公式アドバンスロルファー
・同ロルフムーブメントプラクティショナー
・英国登録ホメオパス(RSHom)
・直傳靈氣師範
・全米ヨガアライアンス認定
ヨガインストラクター
・陰ヨガインストラクター
・ソースポイントセラピー施術者
・ソマティックエクスペリエンス施術者

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<セッションのお申し込み&お問い合わせ>

rolfertakami@gmail.com


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